さて、こうした一連のヒステリーとも言える反応について、アスリートの立場から発言したのが為末大でした。『
日本選手はなぜ謝るのか』(日刊スポーツ)というコラムで、次のように述べています。
<日本の選手のインタビューは似通っていると言われるが、私はその一端に、この謝罪要求というのがあるのではないかと思う。
負けた原因を分析したら言い訳と批判され、純粋な感覚を表現すれば負けたのにヘラヘラしていると言われる。
選手にとっては競技をすることが一番大事だから、変なことで社会から反感を買いたくない。結局、
一番問題が起きにくい謝罪一辺倒の受け答えになっていく。>
つまり、知らず知らずのうちに、私たちはアスリートに対して表面だけの誠実さとか生真面目さを強要しているのではないか、ということなのです。
いい成績ならば、とりあえず家族や周りに感謝しとけと。敗北したのなら、何をおいても、まず頭を下げろと。
結果の良し悪しはさておき、この儀式をきちんとこなせるアスリートが、私たちの社会では高い好感度を得られるのですね。確かに、律儀に感謝の言葉を述べ、素直に頭を下げられる人間はさわやかに思われますが、果たして本当にそうなのでしょうか?
イギリスの作家、G.K.チェスタトンは、『正統とは何か』(訳:安西徹雄、春秋社)という著書の中で、こう記しています。
<
生真面目ということは、実は、自分のことをことさら重大視するという、人間の陥りがちな悪癖に落ちこむことでしかない。というのも、それは何より容易なことだからである。>
そう考えると、“金メダル宣言なんてしたっけ?”といった具合で豪快に笑い飛ばしてみせた14位の福士加代子や、吉田沙保里の涙に疑問を呈したミッツ・マングローブの真意が、少しだけ見えてこないでしょうか。
史上最多のメダルを獲得した陰で、そんなことを考えさせられる大会でもありました。
<TEXT/石黒隆之>