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“眞子さまの乱”どころじゃない「恋を優先させた天皇たちの100年」原武史さんに聞く

 10月26日に婚姻届を提出する予定の秋篠宮家の長女眞子さまと小室圭さん。
眞子さまと小室圭さん写真:日本雑誌協会代表取材

写真:日本雑誌協会代表取材

「納采の儀」をはじめ結婚関連の儀式は行われないなど、皇族の結婚としては異例だと言われていますが、歴史的にみればどうなのでしょうか。 そこで、『大正天皇』『昭和天皇』などの著書があり、皇室の歴史に詳しい放送大学教授、明治学院大学名誉教授の原武史さんに話を聞きました。原氏は最新刊『歴史のダイヤグラム 鉄道から見た日本近現代史』では鉄道が結ぶ小さな出来事と大きな事件から知られざる日本近現代史を浮かび上がらせています。原さんに、ライター・亀山早苗さんが取材しました。(以下、亀山さんの寄稿)

皇族の結婚は過去もスムーズではなかった

放送大学教授、明治学院大学名誉教授 原武史さん

放送大学教授、明治学院大学名誉教授 原武史さん

「現在、眞子さんと小室さんの結婚に際して、日本中が異常なことが起こっていると思っているようですが、皇族の結婚や家族関係は近現代に限っても決していつもスムーズというわけではなかったんですよ」  政治学者で近現代の天皇・皇室や神道の研究を専門とする原武史さんはそう言う。皇族の結婚は、そもそもあらかじめ決められていたことが多く、「恋愛感情」などは伴わなかった。ある意味、政略結婚が“普通”だったのだ。 「たとえば明治33(1900)年、当時の嘉仁皇太子(のちの大正天皇)が九条節子と結婚したのですが、実はその前に皇族の伏見宮禎子女王が内定していたんです。ところがその後、彼女には体調に問題があるとして婚約は破棄されました。代わりに体が丈夫だという理由で節子妃と結婚した。明治天皇の皇后、美子には実子がいなかったので、子どもが産めるかどうかが重視されたわけです」

大正天皇 新婚早々、別の女性をたびたび訪問?!

大正天皇 1912年 毎日新聞社「天皇四代の肖像」宮内省(Ministry of the Imperial Household), Public domain, via Wikimedia Commons

大正天皇 1912年 毎日新聞社「天皇四代の肖像」宮内省(Ministry of the Imperial Household), Public domain, via Wikimedia Commons

 大正天皇は、体は弱かったが気さくで奔放な性格だった。とはいえ夫婦仲は決していいわけではなく、新婚早々訪れた日光で、同じく日光にあった鍋島直大の別邸をたびたび訪問し、滞在していた娘の伊都子(のちの梨本宮妃伊都子)を膝元(ひざもと)に寄せていたことが伊都子の日記に書かれている。 「それで節子妃が一時帰京しています。節子妃の父親が危篤だと知らされたためですが、実はたいしたことがなかった。ただ、大正天皇は妻が帰ってしまったために、その年の誕生日はひとりで過ごすはめになった」  側室制度はまだ廃止されていなかったが、大正天皇が側室をもつことはなかった。ただ、その後も女官を追い回して手をつかんで離さなかったとか、女官に手をつけていたとの噂が世間に広まっていたという。  大正天皇は絶対君主的な態度をとらない人だった。それは体が弱かったことと関係があるのかもしれない。政治に利用されるより「普通の人」でいたかったのだろうか。 「大正時代の後半、特に裕仁皇太子、のちの昭和天皇が摂政になった1921年から26年までは天皇が見えなくなって重石がとれたような時代で、それまでタブーだった天皇や皇太子の噂もあれこれささやかれていたようです。今だって本当は何が真実か一般国民は知りませんよね。だけど噂や報道だけが先走っている」
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昭和天皇 内定から結婚まで5年以上
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