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「19」元メンバー・326、脱退の真相を明かす。小児がん研究の支援を続ける“現在の姿”とは #ニュースその後

 イラストライター、キャラクターデザイナーとして活躍する326こと、ナカムラミツルさん(@nakamura326)。岡平健治さんと岩瀬敬吾さんによるフォークデュオ“19(ジューク)”のメンバーとして、ビジュアルプロデュースや作詞を手がけていたことでも知られています。
326こと、ナカムラミツルさん

326こと、ナカムラミツルさん

 現在は、ボードゲーム制作などを中心に活動する一方、難病で苦しむ子どもたちや、最愛のわが子を亡くした遺族を自主的に支援。  国内200以上の病院が参加して小児がんの臨床研究を続けるNPO法人 日本小児がん研究グループ(JCCG)の応援団を務め、難病により天国へ旅立った子どもたち“天使ちゃん”のイラストを遺族に無償で贈るなど、悲しみを抱える人たちに寄り添う活動にも尽力しています。  ライフワークの背景にある思いとは。かつて、一世を風靡した“19”の脱退秘話と共に聞きました。

“19”脱退の真相は「ある日突然自分の席がなかった…」

 2023年2月で、45歳となった326さん。高校卒業後は福岡のデザイン専門学校へ進学すると共に、20代目前にしてフリーのイラストレーターとして活動をスタートしました。  その後、上京後の1998年に岡平さんと岩瀬さんに出会い“19”を結成。当時、326さんが作詞した代表曲『あの紙ヒコーキ くもり空わって』『すべてへ』などは、今も多くの人に歌い継がれています。  結成して以降、2002年3月の解散までに“19”は多くのヒット曲をリリースしましたが、326さんは3rdシングル『すべてへ』を境にして脱退。その背景には何があったのか。「多くを語れない」としながらも、326さんは当時を振り返ります。 「専門学校中退後に上京した当時、2人組のフォークデュオ『少年フレンド』として活動していた健治と敬吾に出会い“19”を結成しました。2人は演者として、僕は主にジャケットデザインや作詞やMV制作などを担当していましたが、脱退の理由は…いうなれば“大人の都合”に疲れたからです。それに脱退というよりある日突然自分の席がなかった……という表現のほうが正しいかもしれません。  解散についても事前に知らされず、解散直前のライブか何かの映像で2人が『3人で話し合って決めました』と言っていたのを見て、スゲエなって思いました(笑)」

ジリ貧時代を救ってくれたさくらももこの優しさ

326さん 326さんが“19”で活動していた当時、売上枚数50万枚の大ヒットとなった作品『あの紙ヒコーキ くもり空わって』の印税は、3億円にものぼると噂されていました。しかし、当時の月収は「手取り10万円ほどだった」そうです。  一方、個人のイラストレーターとして引き受けた仕事ではギャラの未払いに苦しむなど、ジリ貧生活を送っていたと明かしてくれましたが、そんな326さんを救ってくれたのが漫画『ちびまる子ちゃん』などで知られる今は亡き漫画家・さくらももこさんでした。 「当時あった雑誌の対談企画がきっかけだったと思います。さくら先生は僕の作品をすごく褒めてくれたんです。そこからの交流で、20代の頃はだいぶお世話になりました。当時、ギャラの未払いにより裁判沙汰にまで発展したときは弁護士の先生を紹介していただいたり、まともな物を食べられていないと知られてからは、ご飯をごちそうしていただいたこともあります。  でも、不思議でした。当時の僕は本当に貧乏で何も恩返しできなかったし、利害関係もない僕を助けてもさくら先生にはマイナスはあっても何もプラスがなかったわけですから。僕が何度も『今すぐ恩返しがしたい』と訴えても、いつもはぐらかされるような感じでした。一度、エレベーターで2人きりになったときに今しかないと思い、意を決して『お願いだから何か恩返しさせてくれませんか?』とお願いしたんです。  すると、さくら先生は『あなたがすごく困っていたから私はあなたを助けたの。お返しがほしくてそうしたんじゃないの。私は何もいらない。でもいつか、今のあなたと同じように困っている人がいたら、助けてあげてほしいな。それが私への一番の恩返しだよ』と教えてくれて。そんな素敵な考え方があるんだ…と今でも強烈に覚えています」
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わが子を亡くした親からの依頼が支援活動のきっかけに
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