「性的に見える」「気持ち悪い」と物議の赤いきつねCMに“確実にある”フェティシズム。CMとしての許容範囲とは
東洋水産が2025年2月6日に公開した、「赤いきつね 緑のたぬき」のウェブCM 「『ひとりのよると赤緑』おうちドラマ編」が大きな話題を呼んでいる。
この騒動を炎上と呼ぶこともできるとは思うが、批判一辺倒ではなく、決して多数派とはいえない意見を糾弾する声が多いこともあって、極めて局所的かつごく一部の批判ムードが炎上と捉えられてしまう「非実在型ネット炎上」とする声もある。
しかし、筆者個人としては、この騒動で考えるべきことはあると思う。まず、本作を「性的に感じるか否か」という二元論で語ってしまうと、本CMで決して少なくない人が感じている「気持ち悪さ」「居心地の悪さ」とのズレがあるのではないだろうか。
さらに、個人が選んで観ることができるテレビアニメや映画といった創作物ではない、意図せずに不特定多数が見る可能性があり、かつ商品を訴求する目的があるCMでの表現では、やはり一定の工夫と配慮が必要なのではないだろうか。それぞれについて記していこう。
今回のCMは2つのパターンがあり、1つは女性が家で涙ぐみながらも「赤いきつね」を食べる様子、もう1つは男性が学校の職員室でパソコンで作業をしつつ「緑のたぬき」を食べる様子を映している。女性はドラマを観て泣く、男性は遅くまで残業という、両者のシチュエーションを比較した上での、ジェンダーバイアスを感じるといった批判意見にも納得できる。
そして、「赤いきつね」のほうで多くの人がまず居心地の悪さを感じている理由は、家で一人でカップうどんを食べながらドラマを観ているという、本来は誰にも見られていないはずの生活を「覗き見しているような」感覚にあるのではないか。
それだけならまだしも、そこにあるのは「頬を赤らめる」「髪を耳にかける」といった、やはり少なからずフェティシズムを込めていると言わざるを得ない描写なのだ。もちろん、それぞれは必ずしも性的な表現ではないし、「清楚な女性」というステレオタイプな印象を抱くかどうかも人それぞれで異なることを前提として、「理想的な女性の仕草や印象」の押し付けのように思えるという意見には納得できる。
「極めてプライベートな空間」で「ドラマを見て泣いて」「手軽に作って食べられるカップうどんを食べている」というありふれているようで、ややオーバーにも思える日常を覗き見されているようにも思える。
そこには「アニメならではの現実から誇張もできる表現」をもって「女性の仕草のフェティッシュさ」が目立っている。この居心地の悪さと気持ち悪さは、「性的か否か」という単純な判断とは微妙に、しかし確実に異なっているのではないだろうか。
また、同CMには「女性の(おそらく)一人暮らしで夜にカーテン開けてるのはあり得ない」「(湯気で曇らないように外した)メガネの置き方が上下逆」「ベランダが見える窓の横になぜドアがあるのか(どういう間取りなのか)」「テーブルの奥の脚が消えている」「(クッションを背中に置いているだけかもしれないが)座椅子に座面の部分がない」といったツッコミも多く寄せられている。
こうしたシチュエーションやアニメとしての作り込みにおける違和感も、気持ち悪さや居心地の悪さに少なからずつながっているのだろう。
2月16日ごろからXで「気持ち悪い」「性的に見える」といったネガティブな声が拡散され、その一方で「性的なものを見出す人のほうがおかしい」「普通においしそうに思える良いCMじゃないか」といった反対意見も多い。だしって…なんかホッとしないですか?
— 【公式】東洋水産株式会社(マルちゃん) (@toyosuisan_jp) February 6, 2025
CV:市ノ瀬加那 @ichinose_1220#ひとりのよると赤緑 pic.twitter.com/G8IZ3I2dtM