棚橋弘至はなぜ新日本プロレスを変えることができたのか?【プロレス女子の手記2】<後編>

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新日本プロレスを変えた「棚橋弘至」



 昨年、棚橋は自伝『棚橋弘至はなぜ新日本プロレスを変えることができたのか』(飛鳥新社)を出版した。暴露本かと思えるほどの赤裸々な内容だ。

棚橋弘至はなぜ新日本プロレスを変えることができたのか 棚橋が新日本プロレスに入門した1999年、ジャイアント馬場が他界した。

 前年1998年には、アントニオ猪木が現役を引退。2人のスーパースターが不在となったタイミングで、総合格闘技ブームが大旋風を巻き起こした。2000年代になると、新日本プロレスのレスラーの退団が相次ぐ。新日本プロレスの低迷期が始まった。

 棚橋は退団しなかった。「理想のプロレスをこの新日本プロレスのリングで実現できるように、自分が会社を変えていこう!」と決意したのだ。試合やトレーニングの合間を見つけては、地方に足を運んで自らプロモーション活動をした。地元の新聞、ラジオ、タウン誌、ミニラジオ。出してもらえるところにはどこへでも行き、場を盛り上げて告知をした。

 そんな棚橋に、プロレスファンからはブーイングが集中したという。「ストロングスタイルじゃない棚橋がIWGPヘビー級王者なんて」――。ストロングスタイルとは、アントニオ猪木が提唱した新日本プロレスのスタイル。棚橋は正規軍にも関わらず、ブーイングの嵐に遭うことになった。それが5年ほど続いた。どんなにブーイングを受けても、「俺が新日本を変える!」と言い続けた棚橋の心情を思うと、胸が痛い。

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棚橋のブーイングが声援に変わった、ある試合

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棚橋弘至はなぜ新日本プロレスを変えることができたのか

ガラガラの会場、ブーイングの嵐、会社の身売り…存亡の危機にあった新日本プロレスを支え続け、ついに奇跡の復活へと導いた立役者・棚橋弘至。プロレスファンからの罵倒を乗り越え、不動のエースになった「100年に1人の逸材」が、逆境の中でもがき続けた日々を激白する。




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