
さて、ここで一度深呼吸。改めて、美しいという言葉をすこし考えてみる。人が誰かを美しいと言った途端、相手の美しさ(価値)は固定されてしまう。それは美しいと言った本人の主観でしかない。あんまりむやみにこの形容詞を使うのは危険かもしれない。
原作を執筆する上で、凪良は、もちろんそのことを理解している。それでも清居が美しいことに変わりはない。誰が何と言おうと清居は美しいし、八木君も美しい。ときに平良は、清居を「綺麗だ」と言うことがある。「美しい」に比べてそれはすこし身近な感じがする。
風呂場で鏡に映る清居の悶える表情を見た平良は、「綺麗だ」と言った。これは実際に清居に触れた感覚を表現している。「美しい」は、もっと手の届かない感覚。本作は、清居を神ように崇めていたはずが、手の届かない美しさ(清居)に手を触れたことで平良が葛藤する物語でもある。

ひとつ屋根の下、一緒に暮らすふたりは、付き合っている。事実、恋人なのだけれど、周りからはよく「友達?」と聞かれる。ドラマ版の頃はまだ表向きには「友達……」とためらいがちに答えていたが、『美しい彼~eternal~』になると平良も清居も揃って、「友達じゃない」とっはきり答える。でもそれ以上は言いよどんでしまう。別に男同士の恋愛だから秘密にしたいわけではない(そもそもそんなこと気にするのが野暮です)。でもなぜか、はっきりとは言えない。
このもどかしさ。特に清居は、じれったく思う。平良とふたりのときには何度も「彼氏」だと強く確かめようとする。平良も彼氏だと認識してはいる。ふたりの間で了解があるなら、それでいいじゃんとはならない。すくなくとも筆者は、ここに本作が描く最大の不思議と美しさがあると考えている。
ふたりが出会い、平良が一方的に清居に魅せられる場面を思い出してみる。あの瞬間の平良のモノローグは、こうだった。
「まるで引き潮に乗せられたみたいな感覚。引力めいたものに引きずられて、彼から目が離せない」
原作の記述も内容はほぼ同じ。これがBLドラマ的な関係性を定義していると筆者は以前指摘したことがある。この定義をもとにふたりの関係性を熟考すると、こうなる。ふたりは、友達ではない。ただ、恋人ではある。でも、単に恋人なわけでもない。だから、「恋人以上、友達未満」じゃないかと。