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“眞子さまの乱”どころじゃない「恋を優先させた天皇たちの100年」原武史さんに聞く

昭和天皇 内定から結婚まで5年以上

正装姿の昭和天皇と香淳皇后 1956年 Source 毎日新聞社「天皇家の生活」, 宮内庁, Public domain, via Wikimedia Commons

正装姿の昭和天皇と香淳皇后 1956年 Source 毎日新聞社「天皇家の生活」, 宮内庁, Public domain, via Wikimedia Commons

「変わったのは昭和天皇からですね。結婚に際して恋愛感情が伴うようになった。昭和天皇の結婚は内定から結婚まで5年以上かかっています。宮中某重大事件があったり、母親の貞明皇后が結婚に条件をつけたり、関東大震災が起こったりしたためです」  大正天皇の第一皇子として1901(明治34)年に生まれたのちの昭和天皇。1918年(大正7年)には久邇宮邦彦王の第一女子、良子女王が皇太子妃として内定、翌年には婚約が成立した。  ところがその年、元老・山縣有朋が良子女王の家系に色覚異常の遺伝があると婚約破棄を進言、ここから薩長閥の対立や反藩閥勢力の動き、さらには皇太子の外遊計画への反対運動も絡んで、宮中から政界、右翼などを巻き込む騒動となった。

息子の結婚を遅らせようとした貞明皇后

大正天皇の皇后・貞明皇后 1912年 毎日新聞社「天皇四代の肖像」宮内省(Ministry of the Imperial Household), , Public domain, via Wikimedia Commons

大正天皇の皇后・貞明皇后 1912年 毎日新聞社「天皇四代の肖像」宮内省(Ministry of the Imperial Household), , Public domain, via Wikimedia Commons

 さらに早く婚約を確定させたかった良子女王の父は、洋行が決まっていた皇太子に拝謁したいと訴え出て母である貞明皇后(大正天皇の后)を怒らせている。 「宮中某重大事件は山縣らの敗北に終わり、婚約は変更なしということになりました。昭和天皇は、良子に対する思いが揺らぐことは決してありませんでした。明らかに恋愛感情が介在していたからでしょう」  ただ、事件解決後も、貞明皇后はあれやこれやと言い立てて結婚を遅らせようとしていた。皇太子妃となる良子女王の父に信頼が置けなかったのかもしれない。このあたり、今回の皇室の結婚問題と重なって見えてくるところがある。  ようやく23年秋に成婚式をおこなうことが決まったが、その年9月1日に関東大震災が起こり、成婚式は延期。翌年1月にようやく執り行われた。 「結婚してすぐ、ふたりは猪苗代湖畔にある高松宮別邸、現在の天鏡閣に出かけます。夜、ふたりで猪苗代湖にモーターボートを出して月を眺めたりしているんです。大正天皇とは対照的に、実に甘い新婚生活だったようです。これ以降、皇族の結婚にも恋愛感情がともなうようになっていったんです」
皇太子裕仁親王と良子妃の成婚記念写真 1924年 Source	毎日グラフ「崩御 昭和天皇」, Public domain, via Wikimedia Commons

皇太子裕仁親王と良子妃の成婚記念写真 1924年 Source 毎日グラフ「崩御 昭和天皇」, Public domain, via Wikimedia Commons

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皇室内外から反発された上皇陛下の結婚
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