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ストリートピアノ運営の「苦言」に賛否。街のピアノでトラブルが相次ぐ“日本ならではの理由”

ひとりよがりの演奏になる日本的な理由

ストリートピアノ

写真はイメージです(以下同じ)

 筆者は、一昨年の加古川の一件について『日刊SPA!』で記事を書き、リモート出演した『ABEMA Prime』で所見を述べました。1人10分の演奏時間を守らなかったり、必要以上に大きな音で演奏したりする迷惑行為が相次いだ背景には、日本人が概して他者に無関心だからなのではないかと考えたのです。  それゆえに公共という概念を持ちにくく、ストリートピアノを弾いて街ゆく見ず知らずの人びとを“楽しませる”という感覚も術もないので、ひとりよがりの演奏になるのではないか、と推論を立てました。  そして一見“楽しませる”風に見えるピアノ系YouTuberの演奏も、あれは空中ブランコみたいなアクロバットで目を引くだけで、音楽を味わうことからはかけ離れているから、譜面とにらめっこして練習の成果を披露するタイプのひとりよがりと同じ、ということですね。  もちろん、海外でもみんながみんなストリートピアノに肯定的なわけではありません。アイルランドの新聞『THE IRISH TIMES』電子版(2023年5月3日)に、“街中にはびこるピアノは破滅的な社会崩壊の兆し”だと論じるコラムが掲載されていました。  ただし、コラムの著者が議題にしているのは、アマチュアが繰り返し演奏する耳タコの楽曲リストです。お前ら何度コールドプレイを弾いたら気が済むんだ!?、またイルマの「River Flows In You」かよ、と。  ここではあくまでも音楽鑑賞に関わる事柄が問われている分、まだマシだと言えるでしょうか。  つまり、日本で発生したストリートピアノ問題は、すべて音楽どうこう以前の常識の有無だというところが根深いのです。

自宅でやるべき本気の練習を平気でする恥じらいのなさ

 今回、南港ストリートピアノが<練習は家でしてください>と強めに苦言を呈したのも、他者の目を無視した演奏、もっと言えば振る舞いは、ストリートピアノのコンセプトに反するのみならず、普通に考えてありえないからおやめください、と訴える意図があったのだと思います。  決して、“プロみたいに上手く弾けないならピアノにさわるな”などと言っているのではなく、自由に使えるピアノであったとしても、その自由には公私の区別があってしかるべきなのではないか、と言いたいのでしょう。  こうしてストリートピアノで本来自宅でやるべき本気の練習を平気でしてしまえることこそが、“私”が“公”へとだらしなく流れ込んでいる風潮を示す一例なのではないか。  たとえば、駅構内などでイヤホンで耳をふさぎつつ、スマホでウェブトゥーン(オンラインの漫画)を読んだりゲームをしながら、のろのろ歩く行為をよく見かけます。あれも、ストリートピアノで自分のためだけの練習をしてしまうことと変わりありません。  自宅や自分の部屋だからこそ許される“私”を公共のスペースにおいてさらけ出すことに、なんら恥じらいを感じていないからです。それを自由と履き違えている点も同じと言えるのではないでしょうか。
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常識すら明文化しなければ統率が取れない社会に…
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