自宅であんなことをしておいて、見つかったらあれほど驚くというのはどういう心理なのか理解できないと彼女はため息をついた。
「女性は堂々と着替えて悠然(ゆうぜん)と家から出て行きました。夫は酔ったふりをしていたけど、それほど酔ってはいなかった。
ああいうときって本当にどうしたらいいかわからないんですよ。謝られても困るような気持ちだった。だから夫の目を避けて、私はキッチンで洗い物を始めました。夫はバスルームへ行って、そのまま寝室へ。その日、私は子ども部屋で寝ました。もちろん一睡もできなかったけど」

翌朝も彼女は自分から口を開かなかった。夫は夜になってから謝罪を続けた。酔ってうとうとしていたら彼女が上に乗っていたとか、自分からは何もしていないとか、言い訳にならない言い訳を繰り返し、そのうち泣いて土下座を始めた。
「してしまったことはしかたがないと私は言いました。夫は謝罪を受け入れてくれたと解釈したようです。『僕は一生、きみだけを愛してる』と。どの口がそんなこと言うのかと思いました。
『取り返しがつかないという意味だけど』と私が言うと、なぜか夫は逆ギレして『子どもは渡さないから』って。『家の中でよその女性と浮気するお父さんは、子どもの親としてどうなんだろう』と思わず言ってしまいました」
夫は「きみはオレのことが好きじゃないんだろ。だからそんな冷静でいられるんだ」と言った。だが彼女は冷静だったわけではない。ショックのあまり思考停止状態だったのだ。なぜなら彼女は心から夫を愛していたし敬意を抱いていたから。
「本社を継ぐのは、実は彼の弟なんです。弟のほうが優秀だからと義父は次男を後継者に指名した。夫は一応、専務という肩書きはあったけど、本当は経営者には向いてない。経営側ではなく、実践派として営業部の部長補佐くらいがちょうどいいと思う。でも夫は苦しみながらも『社員に愛される専務』を目指していた。そういう人だからこそ愛していたのに」
絶対的な信頼を裏切られた傷は大きかった。だが、夫が子どもをこの上なく愛しているのもわかっていたから、ユミコさんは大きな決断をすることはできなかった。
「私の中ですべて封印するしかなかった。夫とはギクシャクしましたが、子どもが幼稚園に入り、小学校に入り、さまざまな行事があってと時間が過ぎていくと、表面上はもとに戻ったような感じになりました。ただ、信頼感が戻ったわけではないので、自分に嘘をついているといつも思っていました」

今年、中学に入学した長女が、夏休み明けに同級生の親が離婚した、と告げた。お父さんが不倫してたんだって、と。お母さんはお父さんを許さないんだって。今や13歳の子も「不倫」という言葉を知っている。
「その瞬間、封印していた箱がバッと開くのを感じました。そう、お父さんが不倫していたら離婚してもいいの、いや、離婚したほうがいいのかもしれない。そこから見えない傷が口を開き始めた。私は夫をかつてのように信頼していない。結婚生活を続けているのは欺瞞なんだと考えています」
あれから10年、そしてあと10年たったら私だって……。彼女は今、そう考えているそうだ。
<文/亀山早苗>