そもそも、不倫をしたとき、相手の配偶者に謝る必要があるのだろうか。それぞれが自分の配偶者に謝るならいざしらず、相手の配偶者に謝るのはむしろ僭越(せんえつ)ではないのだろうか。
サレた側は、自身の配偶者を責めるべきであって、不倫相手に謝罪を求めるのはおかしな話。世界的に見ても先進国と言われる国の中で、不倫相手に慰謝料を請求できるのは日本だけだと言われている。離婚時の慰謝料でさえ珍しいくらいだ。ドイツには、「失われた愛の慰謝料は存在せず」という格言さえあるという。
日本の結婚は「愛情」だけで成り立っているわけではなさそうだ。だから今回の広末問題においても、「責任」という言葉が飛び交う。結婚は責任であって、愛情の問題ではないのが日本の結婚のありようなのだろう。

「子どもがかわいそう」も「結婚への責任が足りない」も、結婚を愛情の問題と捉えていないから起こる発言であり、むしろそうした制度にとらわれている人がいかに多いかを認識させられた。愛情で結びつき、愛情がなくなったら別れる。そうした「正直な生き方」のほうが、むしろ子どもへの悪影響も少なくなるのではないだろうか。
両親が揃っていれば、離婚さえしなければ、家庭という形さえ保っていれば「幸せ」だと考えることじたいが間違いだと、多くの人は知っているはずだ。家族という幻想が軛(くびき)となって身動きがとれないつらさを味わっている人が世間にどれだけいることか……。
広末涼子は、自分に正直に生きている。最初の結婚・離婚も今回の結婚・離婚も、彼女は自分ならではの正直な判断のもと決断してきたのだろう。それを「わがまま」というなら、それでもいいと思っているのかもしれない。わがままも貫き通せば魅力となる。
「人間は責任をとるために我慢も必要。みんなが自分に正直に生きていたら社会はめちゃくちゃになる」と言う人もいる。そんなことはあるはずがない。
そのために法がある。法を犯せば裁かれる。法を犯さない範囲であれば、人は自由に正直に生きるべきなのだ。
もちろん、そこには非難の声があるだろう、叩かれもするだろう。そうであっても、正直に生きたほうがいい。なぜなら「自分の人生」だから。叩いてくる人たちこそ、無責任なのだから。
彼女にとって、ここは女優としてさらに飛躍するチャンスかもしれない。バラエティ番組で不倫をいじられてお茶を濁すより、舞台などで女の業を思い切り表現してもらいたい。

そういえば昨年11月に公開された映画『あちらにいる鬼』で、彼女は夫に不倫される妻役を演じていた。夫の不倫相手を演じたのは寺島しのぶ。感情表現豊かな寺島しのぶに比べ、広末は抑制の効いた演技を強いられたが、その中に女の業と怖さをにじませているのが印象的だった。
離婚は、新しい人生の始まりでもある。これからも波乱に満ちた人生を歩むことになるのかもしれないが、それをも含めて、「広末涼子という女優の人生」を見続けてみたい。
<文/亀山早苗>