更新日:2026.10.27 09:42
Entertainment

ミセス新曲MVの「キャバ嬢」描写になぜ批判?大森元貴が描く物語と、現代エンタメの“過剰さ”

「キャバ嬢、夜職、パパ活」が記号として用いられている

 これらの意見を踏まえて、苦境に立たされたキャバ嬢を主人公に据える判断は、完全に否定されるべきなのかどうか?  個人的には、問題視する人たちの懸念も十分に理解しつつも、世の中からこういう表現をすべてなくさなければいけないのかと言われたら、そこは違うと思います。積極的に認めるべきだとも思わないけれども、十分に表現の自由の範疇に収まる話だというのが妥当なところでしょう。  それよりも筆者が気にかかるのは、「シンデレラ」という曲、そして映像表現にまつわるあらゆるディテールにおいて、足し算と掛け算しか行われていないことです。つまり、表現を盛っていく、積み重ねていく、その物量によって平面的なわかりやすさが押し寄せてくる感覚にこそ、言いようのない世知辛さを感じるのです。  たとえば、イントロ部分。ディズニーのようなアニメに、贅を尽くしたオーケストラが鳴り響き、子役の女の子が満面の笑みで誕生日プレゼントのドレスを手にする。これは、映像、音楽、演技の三方向から、すべて同じベクトルで希望という感覚を親切丁寧に説明していることになります。  でも、明らかに説明過多なのです。そこまで言わなくてもわかるはずのものが、至れり尽くせり、念には念をといった具合に、猛烈に刷り込まれていく。  そして、イントロで絶対に誰もが理解できる土台を作ったうえで満を持して登場するのが、キャバ嬢、夜職、パパ活なのです。これは、高いところから低いところに落ちたということがぬかりなく伝わるように、誰もがそれとわかる記号として用いるためです。  ここに、一定方向への解釈を促す歌詞が加わることで、極めて一義的な作風が完成することになる。 「シンデレラ」においては、映像、サウンド、言葉が、すべて同じ進路に向かって積算していく関係にあります。それが、先ほど述べた、足し算と掛け算しか行われていない、ということなのです。

エンタメにも物量的な「満腹感」を求める時代

 しかしながら、これをすべてミセスだけのせいにするわけにもいきません。なぜなら、彼らを含め、制作陣はコスパやタイパが重視される時代の要請に沿って、こうしたプレゼンテーションをしているであろうことは想像できるからです。  つまり、音楽なり映像作品なりを見たときにきちんとわかったという感覚や、多くの音を浴びたという実感がなければ、消費したことに対する満足感とつながらない時代なのではないか。  ひょっとすると、食事に物量的な満腹感を求めるような形で、エンターテイメントもガツガツと消費されているのかもしれません。  図らずも、ミセスの「シンデレラ」は、そんな寒々しい皮肉を映し出す鏡として機能しているのです。 <文/石黒隆之>
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物議を醸している「シンデレラ」のMV
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