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ピエール瀧の作品まで抹殺するのは、おかしい。何のために?誰のために?

「不祥事ならなんでも同じ」ではない

 では、もはや罪を問えない故・マイケルであっても放映中止や自粛に至る根拠となっているものは何なのでしょう?  それは人権意識なのではないでしょうか。ドラッグの所持や摂取には、直接の被害者は存在しません。しかし、右も左もわからない子供を手なづけて性欲のはけ口としたのが事実なら、その行為について“作品と人格は別だ”と片付けるのは極めて困難です。  なぜなら、子供たちは、“あこがれのマイケル”に親しく接してもらえたからこそ、警戒心や疑いもなく距離を縮めてしまった。その“あこがれ”を抱かせたものこそが、彼の音楽やダンスだったと考えざるを得ないからです。  音楽活動によって獲得した絶対的な立場から、慈愛を装って子供を支配する行為。シンプソンズのプロデューサーやドレイクは、その卑劣さに毅然とNOを突きつけたわけです。  もちろん、“臭いものには蓋”といった側面もあるのでしょうが、それでも社会的な正義と照らし合わせたうえでの、良識にもとづく判断だと感じます。

「市中引き回し」のようなもの?

 そこで考えてしまうのは、薬物犯罪における日本流の自粛が、本当に社会的制裁の意味を持つのかという点です。一体、誰の、何に対する正義の実現なのでしょうか
DENKI GROOVE THE MOVIE? ~石野卓球とピエール瀧~

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 確かに、デーブ・スペクター氏(64)が指摘したように、刑が確定していない段階でも迅速に対応する潔癖症的な厳しさが、薬物依存の増加を未然に防いでいるという見方もできるかもしれません。しかし、その発想の根っこにあるものは、市中引き回しの精神とあまり変わりないのではないか。(だからといって、恥の強制力をすべて否定するつもりもないのですが…。)  やはり、今回も釈然としないまま、いつの間にか風化してしまいそうな気がしてなりません。  瀧容疑者のコカイン逮捕と、再燃したマイケルの虐待疑惑に、改めて正義について考えさせられるのでした。 <文/音楽批評・石黒隆之> ⇒この著者は他にこのような記事を書いています【過去記事の一覧】
石黒隆之
音楽批評の他、スポーツ、エンタメ、政治について執筆。『新潮』『ユリイカ』等に音楽評論を寄稿。『Number』等でスポーツ取材の経験もあり。いつかストリートピアノで「お富さん」(春日八郎)を弾きたい。Twitter: @TakayukiIshigu4
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