エロさとは、「禁止の侵犯にある」というのがジョルジュ・バタイユの言葉です。進化の過程で、動物性を感じさせる部分を否定し禁止してきた人間が、禁止されていることをして、動物性を発揮してしまうところにエロさを感じるという意味です。
隠されているから見たいし、手を出しちゃいけない相手だから手を出したい。結婚相手以外とセックスしちゃいけないルールがあるからこそ、外の人とセックスすると興奮する。裸族の人のおっぱいにエロさを感じないのもこの理屈です。
あなたは、おそらくですが彼に対して、視覚的にも精神的にも裸族になってしまっているのではないでしょうか。性に対して明け透けになっているということです。これは悪いことでは無いのですが、日本人の男性、特に年配の男どもは、清純さや恥じらいを女性に期待し、それを侵犯することにエロさを感じます。
最初から大股開きでウェルカムしている女性より、なかなか膝を開かないのをこじ開け自分にだけ開かせるのが好きです。なので、征服欲や支配欲が性欲の正体になってるいる人が多いのです。そういう文化だからと言ってしまえばそれまでですが、女性が性の対象として消費されるだけで主体的にエロを楽しむことができなくなっているのです。
そこで、あなたには違うところにもエロを見出して欲しいし、世の男性にも気づいて欲しいです。
僕が考えるエロさとは、「思考を感情が超える」です。物事を考えるよりも、感情が優先されている時にエロさを感じます。人前ではばかりながらも泣いてしまう大人を見ると色っぽさを感じます。思考を感情が越えた時に、何かが解放されていると思うのです。
これは「禁止の侵犯」と一見すると同じように見えます。人前で感情をあらわにするのは動物的に見えますから。でも、感情のあるがままと、動物的欲望に乗っ取られるのは違うと考えます。排泄処理としての性欲か、文化的愛情としての性欲か。
女性自身が禁止事項になり他者により破られる対象でいるわけではなく、自分が主体的に感情に則り変化を望んでいくのです。
代々木監督の言葉を借りれば、「明け渡す」という状態になっていくことです。相手に夢中になり、セックスに没頭していくのです。考えてしたわけではなく、感じるがままにしてたらそうなっちゃったというわけです。当然、快感を貪ることになるし、はしたないと言われる言動もとります。でもそれがいいんです。動物と違うのは、そこに文化という知性があります。
エロさとは社会性から解放され動物になるだけでなく、人間ならではの文化的感情を解放していくことです。
誰かに押し付けられたりコントロールされるエロさではなく、自ら解放していくエロさを知ってください。そして、それを感じられる相手を見つけてください。とりあえず、今の彼はなしです。別れましょう。
森林原人さん
<文/森林原人>
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