小池百合子というブラックホール並みの虚無にぼう然/ヒット本『女帝 小池百合子』評
平成政治絵巻で小池百合子以外の登場人物が見事に死屍累々
平成の時代になって、政治は昭和の頃の古狸の密室会議のようなものではなく、ちょっとは気安く手の届きやすいものになったかもしれない。だが改めて振り返るとそれは、単にプロの作品がアマチュアのものに劣化しただけのように思えてくる。とにかく、新鮮さ、珍奇さ、ワイドショー的あるいは広告代理店的な派手なパフォーマンスばかりが尊ばれ結果を出し、地味で真面目で真摯に取り組んだ人たちは、ことごとく挫折・失脚しているのだ。リベラルと呼ばれる人たちが永遠に負け続けるのも無理はない。 そしてその平成政治絵巻の脇役あるいは中心に居続けるのが、テレビ界出身で天才的なセルフプロデュース能力と広告代理店的センスを持った、この小池百合子なのだった。 大衆主義、衆愚政治と訳される「ポピュリズム」という言葉の意味を私はよくわからなかったが、この本を読み終えた今、なんとなく理解できた気がしている。 恐ろしいのが、この本を読むと、見事に死屍累々ということだ。登場人物のほとんどが一線を退いている。細川、小泉、あれほど強烈だった小沢一郎も政治家としては死に体に近いだろう。おそらく小池百合子と同じくらいにメディアを煽り大衆を熱狂させた田中真紀子や舛添要一も、今や過去の人だ。小池百合子だけが生き残り続けているのだ。本人が空虚で、確たる政治信条がないゆえ変節も容易だったから、かもしれない。《総理の動き》本日(10月12日)安倍総理は官邸で東京都の小池百合子知事と面会しました。https://t.co/ryvbxiJWW3 pic.twitter.com/IdTZmnHOf1
— 首相官邸 (@kantei) October 12, 2018
弱者への一貫した無理解と冷たさの理由
そしてこの本を見る限り、一貫性のない彼女のスタンスの中で唯一姿勢が変わらないのが、弱者への必要以上の冷たさだ。 震災被害の窮状を訴えに訪れた芦屋(彼女の生まれ育った土地)の女性に目線をあげずに応対し、「マニキュア塗り終わったから、帰っていただきます?」と言い放つ場面、そして拉致被害者の家族の前で忘れ物を探して「あったー、私のバッグ拉致されたかと思っちゃった」と叫ぶ場面はしびれるほどに強烈だ。二丁目で一番性格の悪いオカマでもなかなかないレベルである。 本の冒頭で描かれているが、その芦屋で、見栄っ張りで山師の父親のもとで彼女の家庭は借金取りに追い回されるほどの窮状に陥ったという。普通だったら底辺に落ちぶれたまま這い上がってこれない状況だ。そこを彼女は化け物のような精神力と上昇志向と運でここまで登り詰めた。弱者への一貫した無理解と冷たさは、だからではないだろうか。 なんだか、よく聞くような話である。ある意味、彼女は平成から令和にかけての日本のある部分を体現しているのだ。