――この対話を受けて、南さんが差別について書いていますよね(以下、同書から一部要約して引用)。
<性的指向や容姿、出自や育った環境など、どんな条件であれ、
「差別される側」には責任も問題もまったくありません。
問題があるのは「差別する側」です。
なぜなら、差別の原因はすべて、する側の「無知」にあるからです。>
<差別する人は、相手を「こういう存在だ」と固定し、「自分が正しい」と思っています。しかしそれは、
単なる思い込みであり、妄想です。>
<このように現実を正しく見られない状態を、仏教では「
無明(むみょう)」と呼びます。>

――全くおっしゃる通りだと思いました。ですが今、差別と排除を明らさまに言動に出す大人がすごく増えています。長年日本で働いている外国人にも、「国に帰れ」とか言ってしまう。
仏教では、「無明」は「苦しみの根源」とされますよね。ということは、差別をしている人たちは、同時に、苦しみも抱えているのでしょうか。
南:そうです。
苦しいから差別するんですよ。自我に対する不安を抱えている。
みんな「私」という存在には何の根拠もないと薄々気づいているんだけど、その不安が臨界点を超えると、外に敵を見つけるようになるんです。「私はちゃんとやってるのに、報われないのは、あいつらが悪い」みたいにね。
他者を攻撃する理由をどこかで調達してくるようになって、外国人とか性的マイノリティとかを理由にするわけです。
差別というのは、自我の強度を上げる手段として使えるわけですよ。
しかし、そんな手段で自我に対する不安はなくならない。苦しみは消えないのです。