――離婚後はどんな生活をしていたのでしょうか。
「日雇いのアルバイトですね。子どもを食べさせるために寝ずにバイトをして、たまに知人に協力してもらって子どもを預けて働いたりして、どうにか暮らしてました」
――当時の生活状況は厳しかったですか?
「次の給料日まで財布に300円しかないのに、電気代3000円の請求が来て電気が止まってしまい、灯りがランプだけということもありました。一時期は水道も止められて公園まで水を汲みに行ったりもしましたね」
――まさにギリギリの生活ですね。食生活についてはどうでしたか?
「草を食べていました。近所に大きな公園があったので、草をとってきて自分で試しながら『これは食べられる、これは駄目』の判別を学んでいきました。池にいたザリガニもチャレンジしたんですが、一回食べたらお腹を壊したので諦めました(笑)」

――もはやサバイバルに近いものがありますね。
「あの時期はどん底でしたね。まさに“底辺”。自分が底辺までいってみて、底辺に対する人の視線をすごく怖く感じました。子どもがいたから自殺という手段を選ばなかったけど、一人だったら耐えられないくらい怖かった。『子どもに苦労させる最低な母親』とも言われましたし、常に周囲の会話のネタにされたりもしていました」
「売れなくなったことが恥ずかしい」離婚に反対した親の突然の死
――実家を頼ることはしなかったのでしょうか。
「離婚をすること自体に反対されていたので無理だったんですよ。そもそも私が売れなくなったことで恥ずかしい思いをしてるし被害を被(こうむ)っているのに、これ以上周りから何か言われるようなことをするな、と」
――今でも家族とは没交渉状態なのですか?
「親はコロナ禍で亡くなりました。離婚直後から少し後くらいに電気がもう一回止まるっていうタイミングで、一度お金を貸して欲しいと電話をしたんです。その時に『そんな話なら二度とかけてくるな』と言われて絶縁されて、結局はそのまま……。
再度連絡がきたときには『亡くなりました』と……。最後まで親に何もしてあげられないまま、期待に応えられないままでした」
――お悔み申し上げます。佳奈子さん、本当に辛い思いをされましたね。
「ただ、遺品整理のために実家に帰ったときに『家族の思い出』と書かれた箱を見つけたんです。その中には『あっぱれ』でもらった“わしゃガエル(番組キャラクター)”のぬいぐるみや、夏祭りの収録で使った浴衣セット、運動会のTシャツなんかが入ってました。ずっと捨てられたと思っていたものを残してくれていたことはとても嬉しかったです」

あっぱれさんま大先生のキャラクター「ワシャガエル」(画像:Amazon販売ページより)
――親御さんにとっても佳奈子さんの活躍は大事な思い出だったのですね。
「そして、その中には明石家さんまさんからの手紙もありました。卒業の時に子どもたち一人ひとりに渡された手書きのメッセージです」