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生田斗真「無痛おねだり」発言炎上にみる日本の芸能界の悪習。ぼくらが待つべきは“当人の言葉”

ファンへの限定的な呼びかけだった

 確かに現在の日本では、女性が自然か無痛か、自由に選択ができる環境が整備されているとは言い難い。そもそも選択肢がなかった時代に出産を経験した世代との認識の違いもあり、無痛を選んだことが「ラクな」お産だと思われてしまう。周囲(社会)からの眼差しがバイアスとなり、本来自由であるはずの出産方法で悩む妊婦がたくさんいる。  いわゆる「リプロダクティブ・ヘルス/ライツ」(性や身体のことを自分で決め、守ることができる権利)の観点から、生田の回答が「ちゃかしている」と批判されるのは当然だろう。ただし、必ずしもちゃかしているようには見えないのもまた事実。少なくとも生田斗真ファンとの間では。  そう、今回の批判を勘定に入れていないのは、生田とファンとの信頼関係である。質問はもちろん広く募集したのだろうが、ある程度は限定的なファンへの呼びかけではなかったのか。

ちゃかした発言でないとはいえ……

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※イメージです(以下、同じ)

 自分のファンであるひとりの女性が妊娠で悩む声を聞いて、生田なりに励ましたかったはずだ。その“はず”が「いるようです」の表現につながる。あくまでファンとの間でしか通用しない、ゆるい言論空間だが、フランクな回答例が生田なりの誠意というか、サービス精神だったのかな。  何でもかんでも「炎上させてやる」といわんばかりの大衆のほうが早急な危うさをはらんでもいる。その上で、ファンとの限定的な空間内での言葉が、必ずしも信頼を担保としない、より広い社会全体でも通用するかというとそうではない。  彼が影響力を持つ芸能人である以上は、(ちゃかした発言ではないとはいえ)自分の発言がポリコレ的にアウトかどうか、常に知識をアップデートしながら社会的責任を果たす配慮を怠ってはならない。  ソーシャル(ないしはポリティカル)な発言を芸能人(当然その根っこの芸能界全体)が執拗に避ける日本では、ときに彼らが単純な勉強不足による、意識的な態度を欠いた発言をしてしまうことがある。彼らの周囲に厳密な検閲をできる見識を持った人材がいないこともあって、炎上は監視機能の側面を持っているとも言えるだろう。  2023年、生田は主演映画『渇水』で、給水制限が発令された街で淡々と停水を執行しながら、それでも等身大に迷ったりもする市の職員を演じた。物語の中ではあんなにソーシャルな行動力をたぎらせた生田だった。  なのに、言行一致していないかに見える現実の彼は、同作で主演した俳優と同一人物なのだろか? 俳優は演技に徹していれば問題ない。そういう意見もあるかもしれない。でもそれって、社会集団の一員であるはずが、結果的に現実から目を背け、厄介事を回避してきた“クリーンな”日本の芸能システムの悪習なのでは?
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まともだった、橋本愛の対応力
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