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江頭2:50暴走にネット真っ二つ!問題が“TVバラエティの限界”のあらわれであるワケ

山場を無理にでも作る構造上の問題

(画像:『オールスター感謝祭2025春』TBS公式サイトより)

(画像:『オールスター感謝祭2025春』TBS公式サイトより)

 こうして、劇薬を服用することが常態化してしまった背景には、たえず刺激を与え続けなければ飽きられてしまうという制作サイドの恐れがあるのではないでしょうか。視聴者の側もまた、事件と笑いの連続によって感覚が麻痺しているからです。  今回の江頭のケース以外でも、たとえば、『月曜から夜ふかし』(日本テレビ)における中国人女性の発言捏造(ねつぞう)や、SNS上での視聴者による誹謗中傷がヒートアップしたことで配信が中止されたと言われている恋愛リアリティーショー『恋ステ』(ABEMA)などの問題があります。  これらは、すべて撮れ高や山場を無理にでも作らなければならないという、構造上の問題を抱えている点で共通しています。ふつうにしていれば何もないところに、人為的に事件やら笑いを設定しなければ、商品として流通させられない、ということですね。

粗品「おもんなさすぎました」変化する現在

 改めて『オールスター感謝祭』に戻ると、アンミカへの「乳もませろ!」も、永野芽郁への「俺の女になれ!」も、ふつうにしていれば何もないところに無理やり起こされたイベント、ということになります。  これが、10年ぐらい前まではベタとして受け入れられてきたし、そういうものとして見過ごされてきたのです。  ところが、2025年になり、状況は変わってきました。まだ少数派とはいえ、疑問を表明する人たちが出てきた。霜降り明星の粗品は、きっぱりと「おもんなすぎました」と断罪しています。  こうした意見に対しては、“これがテレビの閉塞感の原因”とか“コンプラを気にしすぎて笑えなくなっている”とかの批判も見受けられます。  しかし、いつもいつも笑えなければいけないものでしょうか? 心の底から衝撃的な場面ばかりを求めているのでしょうか? かまびすしい見世物の飽食状態にある時代で、つまらないものもそのままにしておく繊細さがクローズアップされてもいい頃です。  今回、永野芽郁への江頭2:50の暴走に批判が起きたことは、そうした潜在意識もあらわしているのだと感じました。 <文/石黒隆之>
石黒隆之
音楽批評の他、スポーツ、エンタメ、政治について執筆。『新潮』『ユリイカ』等に音楽評論を寄稿。『Number』等でスポーツ取材の経験もあり。いつかストリートピアノで「お富さん」(春日八郎)を弾きたい。Twitter: @TakayukiIshigu4
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