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「ミセス大森の匂わせ“色恋茶番”を流すTVに違和感」まるで“ファン向けライブ配信”の内輪ノリに公共性はあるのか?

テレビの公共性と“部外者”の不在

けれども、テレビは事情が異なります。電波は“国民が共有する財産である”と定義されていることが、放送の公共性を保障する根拠となっています。 そのことからすると、ファン以外にはそこまで認知されているとは言い難いミュージシャンとアイドルによる茶番めいた色恋沙汰を、さも旬の話題であるかのように番組の企画・構成に組み込むことに公共性があると言えるでしょうか? つまり、ここには演者、関係者、ファン以外の他者が存在しないのです。観客としての他者がいないところで、自己完結型のエンタメごっこが繰り広げられている。 その構図が滑稽なのであり、そこに誰も違和感を感じていないことに絶望感が漂っているのです。

ファンダム文化とメディアの変質

ミセスグリーンアップル

画像:「Mrs. GREEN APPLE」HPより

“部外者=観客”の不在、そこから生じる公共性の欠如を考えるうえで、昨今のファンダム文化に触れないわけにはいきません。 今回のような極めて狭い内輪ノリでもビジネスが成立してしまうのは、アーティストとファンによる直接的で素早い経済の結びつきがあるからです。 けれども、このファンダムにおける直接のやり取りには、“部外者”という緩衝地帯がありません。それゆえに、消耗が早く、成熟とは対極の刹那的な消費に陥りがちになります。 ひいては、そうした幼い傾向が創作物の表現にもあらわれてしまう。それは、メディアが本来担っていたはずの“外部との対話”を失っていくことにもつながっているのです。まさに、大森元貴と鎮西寿々歌の匂わせ、という形であらわれたもの、そのものです。 そして、そのことは、もはやテレビが誰のために放送されているのかが非常に曖昧になっている現状をも映し出しています。 視聴率以上にSNSでの話題性に拘泥するあまり、コンテンツ自体が“ファン向けのライブ配信”みたいなクオリティにまで落ち込んでいるのではないでしょうか。本来、芸事は無関心な“部外者”をも惹きつけるオーラを持つものでした。しかし、いつからか、身近で、親しみやすく、“みんなと同じ”価値観を表現する人をスターに祭り上げるようになってしまいました。 『テレビ×ミセス』には、その無力感が如実に現れていたのだと思います。 <文/石黒隆之>
石黒隆之
音楽批評の他、スポーツ、エンタメ、政治について執筆。『新潮』『ユリイカ』等に音楽評論を寄稿。『Number』等でスポーツ取材の経験もあり。いつかストリートピアノで「お富さん」(春日八郎)を弾きたい。Twitter: @TakayukiIshigu4
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