「ミセス大森の匂わせ“色恋茶番”を流すTVに違和感」まるで“ファン向けライブ配信”の内輪ノリに公共性はあるのか?
テレビの公共性と“部外者”の不在
けれども、テレビは事情が異なります。電波は“国民が共有する財産である”と定義されていることが、放送の公共性を保障する根拠となっています。 そのことからすると、ファン以外にはそこまで認知されているとは言い難いミュージシャンとアイドルによる茶番めいた色恋沙汰を、さも旬の話題であるかのように番組の企画・構成に組み込むことに公共性があると言えるでしょうか? つまり、ここには演者、関係者、ファン以外の他者が存在しないのです。観客としての他者がいないところで、自己完結型のエンタメごっこが繰り広げられている。 その構図が滑稽なのであり、そこに誰も違和感を感じていないことに絶望感が漂っているのです。
ファンダム文化とメディアの変質
石黒隆之
音楽批評の他、スポーツ、エンタメ、政治について執筆。『新潮』『ユリイカ』等に音楽評論を寄稿。『Number』等でスポーツ取材の経験もあり。いつかストリートピアノで「お富さん」(春日八郎)を弾きたい。Twitter: @TakayukiIshigu4
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