
画像:株式会社TBSラジオ プレスリリースより(PR TIMES)
これは、日本の危機について率直に政治的・思想的な言葉で語ればハレーション(反発)が生じることを、彼女自身が理解しているからこそ、あえて“バカなふり”をしてザリガニの例を持ち出したのだと考えられます。つまり、意図的な“ゆるフワ”愛国ムーブであるということです。
ここで強調しておきたいのは、林原さんが日本の未来を憂えること自体が問題だと言っているのではありません。そうした思いは尊重されるべきです。
しかし、率直に正面から語らず、曖昧で回りくどい形で話を展開したことが、結果としてこのような不必要な炎上騒動を招いたのではないか、という点を指摘したいのです。
一方、林原さんのような考え方を頭ごなしに否定する人たち、わかりやすく言うとリベラルの側にも問題があります。
林原さんのような発言に対する彼らの反応は、常に「また特定の思想に偏った主張がなされている」といったタイプのものです。そして、「仕方がないので、賢い私たちが教えてあげよう」と。
しかし、それが大きな驕りであることは、ノーベル賞作家のカズオ・イシグロが指摘しています。高学歴で、比較的裕福なリベラル層は広い世界を正しく理解していると考えがちだが、実は自分たちに似た人たちとしか付き合わない狭い世界しか知らないのではないか、と言っているのです。
その上で、“多様性”をこう定義し直しています。
<しかし、私たちにはリベラル以外の人たちがどんな感情や考え、世界観を持っているのかを反映する芸術も必要です。つまり多様性ということです。これは、さまざまな民族的バックグラウンドを持つ人がそれぞれの経験を語るという意味の多様性ではなく、例えばトランプ支持者やブレグジットを選んだ人の世界を誠実に、そして正確に語るといった多様性です。>(『東洋経済オンライン』2021年3月4日)
つまり、今回のケースで言えば、林原さんを間違っている、修正しなければ、と批判するのではなく、そのような考えのもとで、それが正解だと思って、日々を懸命に生きている人たちの人生も肯定することこそ、真の多様性だと言っているのです。
ですが、またしてもリベラルな人たちは「多様性」という言葉を自分たちの都合の良いようにしか解釈しようとしませんでした。不都合なものをも受け入れる度量を全く欠いていることが明らかになっただけでした。
ここまで林原さんの発言における欺瞞と、その彼女を批判する人たちの傲慢さについて見てきました。そこから浮かび上がるのは、言葉は飛び交うが噛み合わない、不思議な議論の構図です。
そこに、にぎやかなのに窒息しそうな、現代の日本が映し出されていると感じました。
<文/石黒隆之>
石黒隆之
音楽批評の他、スポーツ、エンタメ、政治について執筆。『新潮』『ユリイカ』等に音楽評論を寄稿。『Number』等でスポーツ取材の経験もあり。いつかストリートピアノで「お富さん」(春日八郎)を弾きたい。Twitter:
@TakayukiIshigu4