そして、ネットが加速させる空虚な合理性ゆえに、みんなカネの話にしか興味がなくなってしまう。これが2つ目の理由です。

画像はイメージです。
「食料品は消費税ゼロでいこう」の他にも、「手取りを増やす」だとか「子供におやつをねだられても笑顔でいたい」とか、与野党を問わず訴えられていますが、煎じ詰めればみんなカネです。その意味では、すでに大政翼賛会的な全会一致の構図はできあがっているのです。
確かに、失われた30年に、昨今の物価高とくれば、経済こそが最重要課題なのでしょう。けれども、それだけが政治のなすべきことなのでしょうか? 政治家とは、その程度のちっぽけな存在でいいのでしょうか?

画像:『労働社会の終焉: 経済学に挑む政治哲学』(法政大学出版)
フランスの政治哲学者、ドミニク・メーダは、労働や経済が社会の中心になってしまったために、政治と政治家が貧弱になったと指摘しています。
<こんにち政治家であることは、調整の術に長けている、あるいは経済問題専門のテクノクラシーの意見につねに耳を傾けることができる、ということなのである。>
(『労働社会の終焉:経済学に挑む政治哲学』訳 若森章孝 若森文子 p.239)
ネットのショート動画によってピンポイントに有権者の琴線に触れることが求められるようになってしまった今、政治が経済の調整役に格下げされる流れは避けがたいものになるでしょう。
問題は、そのことに当の政治家が気づいていないことです。それどころか、嬉々としておカネにまつわる言葉ばかり発している。自らの言葉が、自らの存在意義を否定していることにも気づかずに。
選挙が国家の命運を決めると言われますが、本当にそうなのでしょうか? もうとっくに決まっているのではないでしょうか?
“さくラップ”は、社会から政治が消え去ったことを鮮明に映し出しているのです。
<文/石黒隆之>
石黒隆之
音楽批評の他、スポーツ、エンタメ、政治について執筆。『新潮』『ユリイカ』等に音楽評論を寄稿。『Number』等でスポーツ取材の経験もあり。いつかストリートピアノで「お富さん」(春日八郎)を弾きたい。Twitter:
@TakayukiIshigu4