
画像:「参政党Q&Aブック 基礎編」(青林堂)
筆者の立場は後者の否定、嫌悪する人たちです。政策面において、いくつかの疑問があります。たとえば、子どもの教育について「自虐史観を捨て、日本に誇りが持てる教育を!」と掲げていますが、教師からの指導によって抱く「誇り」に一体どれほどの意味があるのでしょうか。
仮に愛国心や国旗への誇りが育まれるとしても、それは本来、個々の内面から自然に芽生えるものであって、外から押しつけるものではないはずです。日本が民主主義国家であるならば、そのような精神は自由意志に委ねられるべきではないでしょうか。
また、「移民受け入れより、国民の就労と所得上昇を促進!」というスローガンも、人口減少によって労働力も購買力も低下していく中で、どうやって日本国民だけで稼ぎと消費を増やすというのでしょうか。これは難解な経済理論の話ではなく、単純な算数の問題です。
たしかに、失われた30年を経て、力強い日本を復活させたいというのは国民の総意なのかもしれませんが、その力強さを訴える論法が、二重否定による肯定のような形で屈折している。ここに、参政党の訴える「保守」の暗さがうかがえるのですね。

画像:参政党HPより
とはいえ、この参政党のような内向きで強硬な「保守」が育ちやすい世界情勢や経済状況にあることも否定できません。つまり、“参政党の支持者は頭が悪い”といった単純な話ではなく、これも歴史の中で繰り返されてきた現象の一部であるという認識が必要でしょう。
参政党が掲げる「国のまもり」の中で示しているグローバリズムへの抵抗も象徴的です。グローバリズムとは、ざっくり言えば、どこの国、どこの街でも似たような建物が並び、食べ物もみな同じ味がする。流行する音楽も、観るドラマや映画も同じ、そんな社会です。
そうした社会が広がると、人々は自分のアイデンティティを見失い、より大きな存在に自分を投影し、信じることでしか、不安や孤独な心をやり過ごせなくなる。いまの日本では、そうした心の隙間に「日本人ファースト」という甘い言葉が静かに忍び込んでくるのです。
そもそも“◯◯ファースト”という表現は本来、自分が優先されるのではなく、相手を立ててお先にどうぞと振る舞うのが自然なはずです。それが、この数年ですっかり意味が入れ替わってしまいました。これは、日本の社会が直面している切迫した余裕のなさを象徴していると言えるでしょう。そして、それは経済的な困難だけが原因ではないはずです。
このような背景がある中で、来たるべき選挙では参政党がおそらく予想を超える議席を獲得するでしょう。その結果、支持者は「日本の勝利だ」と歓喜に湧き、一方で批判する人たちは「日本も終わりだ」と悲嘆に暮れるかもしれません。
しかしながら、未来はこれほど単純ではない可能性もあります。これからも“参政党的なもの”が現れるリスクを警戒しつつ、辛抱強く考えをクリアにしていく忍耐力が求められているのではないでしょうか。
<文/石黒隆之>
石黒隆之
音楽批評の他、スポーツ、エンタメ、政治について執筆。『新潮』『ユリイカ』等に音楽評論を寄稿。『Number』等でスポーツ取材の経験もあり。いつかストリートピアノで「お富さん」(春日八郎)を弾きたい。Twitter:
@TakayukiIshigu4