しかし、「IGMF」については、残念ながら共感することができませんでした。なぜなら、この種の表現方法では参政党に対して効果的な批判にならないと感じるからです。以下に理由を述べます。
まず、「ホラー映画より怖いさや」とか「マジでマザーファッカー」といった直接的かつ一義的な批判の表現が、参政党の神谷宗幣代表のいうところの“叩かれれば叩かれるほど支持される”ルートにまんまとハマっているからです。

画像:参政党HPより
参政党が支持を拡大した背景には、「保守的」なるものが現在の社会において不当な扱いを受けていると訴えるために、常に敵対関係を作り出してきたという構造があります。言い換えれば、参政党を激しく批判する勢力の存在こそが、参政党の支持基盤を強化する最大の要因だったのです。
逆に言えば、敵を作ることでしか生き残れない連中に対して、自らノコノコと「私が敵です」と出向く行為をリベラルの人々はやってしまっている。そう、「IGMF」の表現がまさにそれなのです。
しかも春ねむりは、それをユーモアやパロディではなく、本気の真正面でやってしまっている。それは参政党にとって格好の餌だということも知らずに。
では、こういう政治的な風刺をうまくやるにはどうしたらいいか。1960年代から1970年代に活躍したアメリカのフォークシンガー、フィル・オクスという人がいます。彼は「Love Me, I’m a Liberal」という曲で理想と社会正義に燃えるリベラル主義者になりきって、その欺瞞(ぎまん)を風刺的に批判しました。

画像:There But for(Elektra / Wea)
たとえば、こんな一節があります。「黒人の市民権を認めるのはやぶさかではないし、エンタメで黒人のスターがあらわれるのは素晴らしいことだ。でも、社会革命まではちょっと行き過ぎだから、それは勘弁してね」。こういう、今風に言うならば彼らにとってのみ都合の良い多様性を支持するのがリベラルなのだと、フィル・オクスは歌っているのです。
春ねむりも、こういう形で参政党的なものの思考パターンを研究したうえで、彼らのキャラになりきって控えめにおちょくるような歌詞であれば、より大きな共感を得られたと思います。
そして根本的な問題ですが、そもそも「IGMF」がさや氏の知名度に乗っかっている時点で、すでに敗北を喫しているという点です。さや氏の演説のサンプリングから曲がスタートしている時点で、「IGMF」は、春ねむりではなく、“さや氏の楽曲”と言わざるを得ません。
つまり、批判すべき対象に依存しなければ成り立たない曲である時点で、ソングライターとして致命的に後手を踏んでいるのです。
春ねむりは、参政党、さや氏に対する危機感を率直かつ攻撃的なラップという表現で世に訴えました。その思いは理解できます。しかし、そのような生真面目さが効果的であるのかどうかについては、より冷静な視点が必要だったように感じます。
それこそが、“アーティスト”に欠かせない批評眼だからです。
<文/石黒隆之>
石黒隆之
音楽批評の他、スポーツ、エンタメ、政治について執筆。『新潮』『ユリイカ』等に音楽評論を寄稿。『Number』等でスポーツ取材の経験もあり。いつかストリートピアノで「お富さん」(春日八郎)を弾きたい。Twitter:
@TakayukiIshigu4