そこで改めて振り返りたいのが、当時の森保監督の記者会見での言葉です。あのタイミングで、なぜ監督は世論以上に厳しい態度で本人の非を認め、たしなめることができなかったのでしょうか。監督は会見で、次のように語っていました。
「チームの一員を家族と考えた時に、指導者として選手と向き合う中、1人の人間としてミスを犯した選手をそのまま社会から放任するのか、サッカー界から葬り去るのかということに関しては、再チャレンジする道を家族として与えることの方がいいのではないか」(『日刊スポーツ』2025年5月23日)
この発言には、決定的な問題をはらんだ表現が2つあります。それが「再チャレンジ」と「家族」です。
まず、性加害という被害者の尊厳を深く傷つける事件に対して、安易に「再チャレンジ」という言葉を使うこと自体、被害者女性への配慮を著しく欠いています。
もちろん、監督が個人的に佐野選手に強い思い入れを抱き、救いたいと願うのは自由かもしれません。しかし、日本代表監督という立場は、極めて公的な職業です。その発言は、社会にどのようなメッセージとして受け取られ、どんな影響を及ぼすかまで計算されていなければなりません。
そう考えたとき、「再チャレンジの道を許したい」と公言したことは、あまりにも配慮に欠けた言葉のチョイスだったと言わざるを得ません。
さらに危ういのが「家族」という表現です。この言葉は、明確に「身内(内側)」と「他人(外側)」を切り分ける壁を作ってしまいます。
「自分と佐野選手の間には強い絆があるから守る」という身内への情愛は、一見温かく見えるかもしれません。しかしそれは裏を返せば、事件の全体像を客観的に見る視点や、被害者という「他者」が置き去りにされているように映ります。
だからこそ、身内をかばっているような印象しか与えることができなかったのです。
今回このように問題が再燃してしまったのは、しかるべきタイミングで佐野選手の非を厳しい言葉で認めさせ、社会的なケジメをつけさせなかったツケが回ってきたからではないでしょうか。
傷ついた身内をただかばうことだけが優しさではありません。時には厳しい姿勢を示して犯した罪の重さと向き合わせることこそが、本当の意味での「指導者の優しさ」だったはずです。