「その瞬間、私は思わず『待ってください! その食パンは先に彼女が取ったのを私は見ていました』と声を上げていたんです」

店内の視線が一斉に夏希さんへ向きましたが、そのまま続けて「言いがかりをつけて横取りするのはやめてください!」と言い放ちました。
「正直、心臓はバクバクで。でも、どうしても見過ごせなかったんですよ」
すると驚いたことに「私も見てました」「私も棚から取ったところ見ましたよ」「その女性が先でしたよね」と、あちこちから声が上がり始めました。
先ほどまで静観していた人たちも、夏希さんの言葉をきっかけに次々と証言し始めたのです。
すると、おばさんの顔色がみるみる変わっていったそう。そこへ騒ぎを聞きつけた店員さんが駆けつけます。事情を説明すると「複数のお客様がご覧になっていたとのことですので、その食パンは最初に取られたお客様のものとして対応させていただきます」と落ち着いた口調で伝えました。
「店員さんに呼び止められた若い女性は、恐縮しながら戻ってきました。食パンを返されると『ありがとうございます』と、声を上げてくれた人たちに深々と頭を下げていました」
本来なら、何も頭を下げる必要はなかったはずです。それでも女性は何度もお礼を口にし、ほっとしたような表情を浮かべていたそう。
ところが、おばさんは納得いかなかったよう。「はぁ?! みんなして私を悪者にするわけ?! まったく感じの悪い店ね!」と叫ぶと、ブツブツと文句を言い続けながら店を出て行ってしまいました。
店内には何とも言えない静けさが残りましたが、直後に誰かが「よかったね」と女性へ声を掛けると、周囲にもホッとした空気が広がったそう。
「正直、あの時は勇気がいりました。でも、もし誰も何も言わなかったら、あの女性は泣き寝入りしていたかもしれません」
「今でも、あの日の出来事を思い出すたびに『声を上げてよかった』と思えるし、あの女性の笑顔を思い出すんですよね」と微笑む夏希さんなのでした。
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<文・イラスト/鈴木詩子>