星野真里を批判する人たちの“薄気味悪さ”。「先生がかわいそう」の裏に透ける人々の鬱屈とは
『24時間テレビ』でマラソンを完走した星野真里に批判が殺到しています。きっかけは、先天性ミオパチーという難病を患う娘のふうかさんの学校生活をめぐる、番組内での発言でした。
特別支援学級に在籍しながら通常学級でも学ぶふうかさんについて、星野さんは番組内で、小学1年生の授業参観で「一番後ろにポツン」と座り、声をかけられないまま授業が進んでいたと告白。「本当にいさせてもらっている状況だった」と振り返り、「一緒に学ぶってこういうことじゃない」と学校側に改善を求めたことを明かしました。
こうした星野さんの主張に対して、一部ネットユーザーらが反論のポストやコメントを投稿。それらが多くの共感を集める事態になっているのです。
もちろん、星野さんの主張が100パーセント正しく、そして完全に受け入れられなければならないというわけではありません。けれども、今回星野さんに向けられた批判、もっと言えば反感には、そうした是々非々の判断よりも、感情的なバイアスがかかっているように思われます。
なぜなら、言っていることに対する賛否はあるにせよ、まずは彼女たち一家の送ってきたこれまでの日々に対する配慮や想像があってしかるべきだからです。それが「お互い様」を暗黙のルールとする、成熟した社会の姿であるはずです。
しかし、批判コメントにはそうした思いやりはみじんもなく、最初から冷たく突き放したように「これが現実だ」と論破を仕掛けるようなものばかり。
客観的なデータをもとに星野さんを批判できる自分は正しさを体現している、と言わんばかりの硬質な言葉でまくし立てている。
いったい、なぜ星野真里に対して、一斉にマウントを取りたがるような世論が形成されてしまったのでしょうか?
まず、批判の矛先が障害者政策に向けられている点は特徴的です。なぜなら、彼らの「正しさ」は社会的な弱者に対して発動しているからです。つまり、自分より小さく弱いものに対してなら正論をぶつけられるという安心感があるからこそ、星野さんの主張は格好の餌食になったというわけです。
これは生活保護叩きと同じ構図だと言えます。批判をする際に、自分が高い確率で正しく、強いポジションにいられるロジックを構築するために、もっとも弱く小さいものを血眼になって探すのです。
これが、今回の星野真里批判に漂う、薄気味悪さの正体です。
教員名乗るアカウントからも反発が
X上で教員を名乗るアカウントからは、マラソンのゴール後に「明日から学校に行くのが恐怖」という趣旨の投稿がありました。これは、星野さんの主張が世間に広く認知され、受け入れられることで、教育現場の負担が増えてしまうことを恐れているというメッセージです。 もちろん、当事者の困惑は理解できます。しかし、そうした悲鳴を利用してまで議論を有利に進めようとする冷淡さは、別の話です。 また同じXの別アカウントの投稿で、「普通の学校に入学させたのは、知的障害ではないから障害ではないという親のエゴなのではないか」との意見も多くのインプレッションを集めていました。 そして、ネットニュースでは「全介助が必要なら支援学校に行くべき」とのコメントも共感を呼んでいます。
星野真里への批判に漂う「薄気味悪さ」の正体
1
2










