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刺青姿のポスターで炎上する法務省×『ラヴ上等』コラボ。潔癖すぎる「悪の排除」が社会の安全に繋がらないワケ

悪の痕跡を消していくことが、社会の安心安全につながるのか

 しかし、物事はそう単純なのでしょうか? 『ラヴ上等』で武勇伝を自慢げに語る元半グレや元不良を表舞台から排除すれば、若い人たちが彼らのような悪行をすることがなくなるのでしょうか? そうやって「悪」の痕跡をしらみつぶしに消していくことが、本当に社会の安全や安心につながっていくのでしょうか?  こうした一義的な物の見方に厳しく疑問を投げ掛けたのが、作家の坂口安吾です。安吾は、善悪は分けがたくつながっているものだと考えていました。人間は正義一辺倒で生きられるものではなく、悪に対する憧れがあるからこそ、そこへの自制心として初めて正義が生まれる、と言っているのです。 <人間がみんな聖人になり、この世に悪というものがなくなったら幸福だろうと思うのは、 茶飲み話の空想としては結構であるが、大マジメな議論としては、正当なものではないだろ う。人間のよろこびは俗なもので、苦楽相半ばするところに、あるものだ。悪というものがな くなれば、おのずから善もない。人生は水のごとくに無色透明なものがあるだけで、まことに ハリアイもなく、生きガイもない。眠るにしかずである。  人間は本来善悪の混血児であり、悪に対するブレーキと同時に、憧憬をも持っているのだ。>(『湯の町エレジー』)  つまり、世間の『ラヴ上等』に対する「ブレーキ」という反射的な否定感情を、安吾は、それは悪への「憧憬」なのではないか、と問うているのです。

安易なコラボに見せかけて、奥深い?

 どうしても反応したり意見したりせずにはいられなくなる魅力が『ラヴ上等』にあることを、まさに激しく批判し徹底的に否定する人たちこそが感じている可能性はないのか、というわけです。  この安吾の説を取るならば、『ラヴ上等』をめぐる状況は皮肉な風景を映し出していると言えないでしょうか。声高に「善」の保護を主張している人たちは、実は「悪」に惹きつけられている人たちでもあるという構図が浮かび上がるからです。  そう考えると、法務省保護局のキャンペーンはかなり芯を食っています。善と悪は表裏一体であり、それは分けがたく、誰がいつどちらの側に立つともわからないからです。そのセーフティーネットとして、保護と更生という概念が存在する。  安易なコラボに見せかけて、奥深い。知らない間に人間の深層心理に訴えかける、『ラヴ上等』ポスターなのでした。 <文/石黒隆之>
石黒隆之
音楽批評の他、スポーツ、エンタメ、政治について執筆。『新潮』『ユリイカ』等に音楽評論を寄稿。『Number』等でスポーツ取材の経験もあり。いつかストリートピアノで「お富さん」(春日八郎)を弾きたい。Twitter: @TakayukiIshigu4
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