元農水次官の長男殺害を「引きこもり」問題とくくってはいけない理由
今年6月に元農林水産事務次官・熊沢英昭被告が東京都練馬区の自宅で44歳の長男を刺殺したとして殺人罪に問われた事件は、社会に大きなショックを与えました。
多くのメディアは長男が2008年頃に仕事を辞め、自宅でゲームをするなどして過ごしていたことから、この事件を「引きこもり」問題として報じています。
けれども引きこもり当事者・家族に多数取材を重ねたノンフィクションライター亀山早苗さんは疑問を呈します。(以下、亀山さんの寄稿)
元農水省事務次官による息子殺しの裁判が16日におこなわれ、東京地裁が懲役6年の実刑を言い渡した。
76歳の父と44歳の息子。息子は発達障害だと診断され、ひきこもりだとも報じられた。ちまたで言われている「7050問題」「8050問題」とからめ(70代、80代の親たちが40代、50代のひきこもりの子どもたちのめんどうを見ざるを得ず、共倒れになるような問題)、ひきこもりが犯罪予備軍であるかのような間違った認識が流布し、当時、当事者たちが反論を繰り広げたこともあった。
私は2年あまりにわたって、ひきこもり当事者、元当事者たちへの取材を続けているが、彼らは総じて頭脳明晰で、しかも人当たりがいい。だからこそいじめにあったり人間関係がうまくいかなかったりするのだ。
ひきこもると体力も気力も低下するので、家庭で暴力をふるったりするケースは少ない。しかも多くの当事者たちは、「親に申し訳ない」「社会で人の役に立ちたい」と思っている。人生がうまくいかないことを内心、親の影響によるものと考えていても、実際に親に暴力をふるうより親と顔を合わせないようにする方法をとる人たちが圧倒的多数だと思う。
この事件によって、テレビではまた「中高年のひきこもり」が61万人だとあたかも関連性が強いように報じているが、決してそんなことはないと言っておきたい。
今回新たにわかったのは、母親がうつ病だったこと、そして被害者の妹が自殺していたことだろう。つまり、息子の行状によって一家は悲惨なことになっていたのだ。それにしても、妹を遠方の大学に通わせるとか、あるいは留学させてしまうとか、何か方法はなかったのだろうか。
元農水省事務次官と同様に、うつ病の妻、暴れる息子を背負った父親のケースを取材したことがある。
知人のヒサオさん(55歳)は、5年前まで非常につらい状況にあった。30歳で2歳年下の女性と結婚、32歳で長男を、35歳で長女を授かった。ところが45歳のとき妻がうつ病を発症。一時期は入院したが、退院してからも寝たきり状態が続いていた時期があった。
「最初は子どもたちにも、おかあさんは病気だからと伝えて、みんなでがんばっていこうと言っていたんです。私は朝早く起きて、子どもたちに朝食を作り、夕食の下ごしらえをして会社に行った。
ところが1年ほどたつうちに、中学生だった息子は情緒不安定になって、暴れたり部屋にひきこもったりするようになった。それを見ていた娘も怯えて学校に行けなくなりました。母親の愛情が得られなかったこと、どうしても夜は子どもたちだけで食事をとるようになることで寂しかったんでしょう。妻はときどき起きてきましたが、子どもたちと話すこともできなかった」
いっそ、一家心中してしまえばラクになる。そう思ったこともあるという。だが、子どもたちや妻の寝顔を見ていると、なんとかしなければという思いが勝っていった。自分の家族なのだ、とヒサオさんは心を決めた。
このままでは一家がダメになる。ヒサオさんは、地域の役所や保健所など、ありとあらゆるところに相談に出向いた。マンション住まいで、あまり近所とのつきあいはなかったが、マンションの自治会や両隣の世帯にも詳細に現状を説明した。
会社にも事情を報告、花形だった営業部から資料部へと異動を願い出、さらに時短で働けるよう会社に働きかけた。彼がそれまできちんと仕事をしていたからだろう、会社もできる限りのことをすると約束してくれた。
家にはヘルパー、保健師、役所の人たち、近所の人たちが訪ねてくれるようになった。ひとりで何もかも抱え込まなくてすむ。近所の人が息子を夕食に招き、その家の大学生や高校生の息子たちと遊ばせてくれることもあった。彼は家事と妻の看護をしながら、子どもたちの気持ちをなるべく細かく聞くようにした。
「たくさんの人に支えられながら,時間がたつにつれて少しずつ生活が回り始めたと実感しました。
妻がすっかりよくなるまで5年近くかかりましたが、息子は希望の高校に入れたし、娘は途中から妻のめんどうをよく見てくれるようになった。それが妻の症状を軽くしていったとも思います」
現在、息子は福祉系の大学院に進んでおり、娘は医学部の学生だ。ヒサオさん自身は、出世への道を断たれたが、妻とは恋人同士のように仲がいいという。
「あのときは家族をどうするかしか考えていなかった。ただ、仕事しか考えられない人もいると思うし、それがいけないとも思えないんですよね。たまたま僕は家族のほうが重要だと思っただけなので……」
こんなとき、「正解」などないのかもしれない。家族を犠牲にしても仕事をしたい人がいるだろうし、仕事に逃げ場を求める人もいるはずだ。それが「悪い」とは言い切れない。
ただ、少なくとも、彼のように周りに助けを求めることは重要なのではないだろうか。行政や警察に相談し、自分がSOSを発信し続けること。世間体などどうでもいい。必死で助けを求めれば、誰かが手を差し伸べてくれるはずだ。
もちろん、何もかもうまくいくかどうかはわからない。ただ、家の中のことを家の中だけで解決しようとしてもむずかしい。助けを求めるのは、早ければ早いほど事態は深刻化しないのではないだろうか。
<文/亀山早苗>
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けれども引きこもり当事者・家族に多数取材を重ねたノンフィクションライター亀山早苗さんは疑問を呈します。(以下、亀山さんの寄稿)
ひきこもりと関連付けた報道が多いが…

写真はイメージです(以下同じ)
他に方法はなかったのか?
いっそ、一家心中してしまえばラクになる。そう思ったこともあるという。だが、子どもたちや妻の寝顔を見ていると、なんとかしなければという思いが勝っていった。自分の家族なのだ、とヒサオさんは心を決めた。
このままでは一家がダメになる。ヒサオさんは、地域の役所や保健所など、ありとあらゆるところに相談に出向いた。マンション住まいで、あまり近所とのつきあいはなかったが、マンションの自治会や両隣の世帯にも詳細に現状を説明した。
会社にも事情を報告、花形だった営業部から資料部へと異動を願い出、さらに時短で働けるよう会社に働きかけた。彼がそれまできちんと仕事をしていたからだろう、会社もできる限りのことをすると約束してくれた。
家の中のことを家の中だけで解決しようとしてもむずかしい

写真はイメージです(以下、同じ)
亀山早苗
フリーライター。著書に『くまモン力ー人を惹きつける愛と魅力の秘密』がある。男女関係、特に不倫について20年以上取材を続け、『不倫の恋で苦しむ男たち』『夫の不倫で苦しむ妻たち』『人はなぜ不倫をするのか』『復讐手帖─愛が狂気に変わるとき─』など著書多数。Twitter:@viofatalevio


