咲さんも、交際当初からずっと子供が欲しいと言っていた。
「以前付き合っていた彼氏と結婚寸前までいったそうなんですが、彼から子供をつくる気はないと言われて別れたそうです。だから
僕に強い子作り願望があると知ると、顔をくしゃくしゃにして喜びました。家訓は何にしようか。毎朝トイレが渋滞したら困るね。息子だったらサッカーを教えたい。娘だったらバレエかな、ピアノかな。でもお金かかっちゃうね。そうだ、ミニバンも買わないと。あの時は本当に無邪気でした。思い出すと恨めしくなるくらいに……」

咲さんが子供を切望したのには、理由がある。
「咲は小器用ではあるんですが、あまり自己評価が高くない人間でした。小さい頃から
『自分には、胸を張って得意だと言えることが、ひとつもない』という思いを抱えて生きてきたそうです。個性的な友達や有能な同僚に対しては、常にコンプレックスを抱いていたと。そういうそぶりを一切見せないで、いつも朗らかにふるまえるのが、彼女の美徳ではあるのですが。
そんな咲が、
唯一『自分は得意かも』と思えたのが、『母親になること』だったそうです。咲は結婚前、僕に『バカみたいだと言わないで聞いて』と前置きしてから言いました。『私、小さい頃から、お母さんになるのが夢だったんだ。私ね、すごくいい母親になれると思うんだ』って」
咲さんが自分の資質を自信満々に語ることは、それまでに一度もなかった。石岡さんはその言葉を聞いて思わず泣いたという。
「今すぐこの人と結婚して、ひとりでも多く子供を作って、にぎやかな家庭を作りたい。そのために、今まで以上に仕事を頑張ろうって決意しました」
しかし、その願いは叶わずして潰(つい)えた。
「花が咲く前に散った、みたいな気分ですよ」
夫婦で子供のいない人生を歩む選択肢はなかったのか。
「もちろん言いました。
『子供のいない人生も、子供がいる人生と同じように別の幸せがあると思う』って。でも長い沈黙の後、咲から出てきた言葉は、『敏夫は悪くない。ごめんなさい、ごめんなさい』」

石岡さんはあえて咲さんに聞いた。何がごめんなさいなの? と。
「
『敏夫と人生を共にできるなら、子供なんていなくていい』と言えなくてごめんなさい、って。目が回るくらいショックを受けた一方で、冷静な自分もいました。なんて誠実で正直な妻なんだろうと。そう思いません?」
そう話す石岡さんは、半笑いだった。
「
“夫”が“子供”の代わりにならないことくらい、最初からわかっていました。その時ふと、昔見た何かのTV番組を思い出したんです。子供が欲しくてもできなかった夫婦が、カメラの前で『でも私たちは、夫婦ふたりの人生を楽しんでます。子供がいたらできないようなことを、たくさんするんです!』と満面の笑みで話してたんです。僕、その番組を見て、ああ、この人たち無理してるな、強がってるなって、心の中で毒づいたんですよ。それが全部、ブーメランで自分に返ってきた」
石岡さんはつい、咲さんに“念押し”してしまう。
「ここで黙って終わっておけばいいのに、咲に聞いてしまいました。
『子供がいなかったら、結婚してる意味はないの?』と。答えはもう出ているのに。咲は蚊の鳴くような声で言いました。『ごめん、わからない……』」