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タカラジェンヌの五輪閉会式出演に賛否両論。誰がなんで怒っているの? 

あらゆる区分を超えた表現である宝塚

宝塚歌劇団「『ベルサイユのばら-オスカル編-』 雪組」宝塚クリエイティブアーツ

宝塚歌劇団「『ベルサイユのばら-オスカル編-』 雪組」宝塚クリエイティブアーツ

 宝塚の公式サイトに“(1924年)当時パリを中心に西欧諸国で大流行していた舞台芸術を取り入れ独自に上演していったことは、昭和初期の日本文化にヨーロッパの息吹を持ち込んだ斬新な試みでした。”と書いてあるように、いち早く日本と海外の文化を融合させ、しかもそれを全員女性の演者で行っている。  それこそ、次のオリンピック開催地のパリを舞台にした「ベルサイユのばら」は代表作中の代表作である。閉会式本番前に「ベルばら」とつなげてくるのではという推測もネットを賑わせていた。  国も性も年齢も……あらゆる区分を超えた表現である宝塚が日本を代表して国歌斉唱したことは喜ばしいことではないだろうか。髪の色が全員、黒になっていたことが気になるという声もあったが、装備を剥いで、黒髪、袴と日本人の基本のようなミニマムな出で立ちで式典に立ってそれが清らかであることは悪くはないように感じる。

民衆は常に国家の大義の下には成す術はないのか

 残る問題は、コロナ禍、「不要不急」であると政府の要請により真っ先に公演中止になった演劇のひとつである宝塚が、政府が反対の声もあるなか開催するオリンピックに参加していることを疑問視する声、もしくは、純粋にタカラジェンヌたちのコロナ感染を心配する声だった。  もっともそれを言ったら開閉式に登場した文化、芸術、芸能の世界に身をおいている人達はほぼ皆、コロナ禍で「不要不急」を突きつけられてきた者たちである。ダンサーもミュージシャンもタレントも歌舞伎俳優も。なかには断固として政府の方針を拒否するという姿勢があってもいいし(たぶんオファーを断った人たちもいるだろう)、表現することが彼らのすべてであり、請われたらできる限りのことをするという考え方もあっていいのではないか。  例えば、太平洋戦争時は欧米ものをやらなくなり国策劇をやるようになり、最終的には劇場が封鎖された。各地を慰問(いもん)に回り、満州にまで行ったことは、のちに演劇化もされたテレビドラマ「愛と青春の宝塚~恋よりも命よりも~」(02年)で描かれている。また宝塚と戦争について書いた新書「タカラジェンヌの太平洋戦争」(玉岡かおる著)では移動演劇隊のことのみならず、宝塚音楽舞踊学校の生徒たちは大日本国防婦人会に入会したことも記されている。  今回のオリンピックと太平洋戦争を安易に結びつけるつもりはない。ただ民衆は常に国家の大義の下には成す術はないのかと感じざるを得ない。
JMPA代表撮影

JMPA代表撮影

 コロナ感染者がこんなにも多く自粛を強いられる者たちもいるなかなぜやるのかという一部の声を浴びながら粛々と競技に出たアスリートと同じく、大きな開場に20人で毅然と立って顔をあげ澄み切った声で歌う姿は、これまで積み重ねてきた技術や感性が圧倒的な力となって放たれ、見る者を魅入らせ、ひととき何もかも忘れさせてくれたことは紛れもない事実なのである。  タカラジェンヌたちの国歌斉唱は「不要不急」の苦難の瓦礫(がれき)の中から芽を出した色とりどりの花のようであった。 <文/木俣冬> ⇒この著者は他にこのような記事を書いています【過去記事の一覧】
木俣冬
フリーライター。ドラマ、映画、演劇などエンタメ作品に関するルポルタージュ、インタビュー、レビューなどを執筆。ノベライズも手がける。『ネットと朝ドラ』『みんなの朝ドラ』など著書多数、蜷川幸雄『身体的物語論』の企画構成など。Twitter:@kamitonami
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