
人はある能力によって、他人に思い出してもらえる時に幸福なのだ。ただ単に「大食い」だからでもいい。野外で食事の支度をしていたら、大鍋の汁を作り過ぎた。多分余りそうだから、「あいつを呼ぼう」でもいい。そこに一人で三杯汁どころか五杯汁だって平気という豪傑がニコニコ笑いながらやって来て、おつゆを何杯もお代わりして平らげてくれれば、食卓全体が明るくなる。
誰でも「呼ばれている」という感覚は嬉しい。どんな小さなことでもいい。だから呼んで頼むこともいい。頼まれた人も、ひがまずにいそいそとそのグループに加わって自分のできることをするのだ。
(略)
しかし今でも、誰かに呼ばれている、必要とされている、ということは、どんな些細なことでも、神が呼んでいる、神がその人をその時必要としている、ということでもある。そう思えば自分の現在を惨めに思うどころか、楽しくなる面も見いだせるはずだ。(『死生論』)
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人間関係の悩みは、相手もあることなのでなかなかすっきりとは解決しないですよね。深く落ち込んで、心を痛めてしまうケースもよくあります。でも、指針になる言葉をひとつでも持っていると、心持ちはふっと軽くなるものです。人生の達人とも言える曽野綾子さんの言葉をお守り代わりにしてはいかがでしょうか?

【曽野綾子(その あやこ)】
1931年9月、東京生まれ。聖心女子大学卒。幼少時より、カトリック教育を受ける。1953年、作家三浦朱門氏と結婚。小説『燃えさかる薪』『無名碑』『神の汚れた手』『極北の光』『哀歌』『二月三十日』、エッセイ『自分の始末』『自分の財産』『人生の醍醐味』『人生の疲れについて』『老いの才覚』『人間の基本』『人間にとって成熟とは何か』『夫の後始末』『
自分の価値』など著書多数
<文/女子SPA!編集部>