伊藤健太郎と堕ちていく主人公が重なる…文学的映画が本格復帰にふさわし過ぎる理由
伊藤主役は監督発案ではなかった
間違いは誰にでもあることで、それをどうリカバリーするかが人間の価値になる。俳優をやめて別のことをするやり方もあるし、俳優を続けることでもう一度やり直していく生き方もある。伊藤の俳優としての可能性を生かすやり方を監督と本人は選択したということであろう。そしてそれはいい形に着地したように感じた。
ところが「冬薔薇」のプレスシートの監督インタビューを読むと、伊藤を主役に映画を撮ることは監督発案ではなかったとあった。そう提案されて当人に会い2時間ほど彼の話を聞いたうえで脚本に生かし映画を作った。事故の話も会うまでは週刊誌の記事くらいしか知らなかったという。逆にそういうフラットな立場の監督だから良かったのかもしれない。
「冬薔薇」は決して手放しで愉快な娯楽映画ではない。かといってめちゃめちゃ硬派な社会派ドキュメンタリーでもない。ただただ、今、日本の片隅に生きる人たちの哀しみや苦しみを見つめる純文学のような味わいのある作品である。いつしか渡口家で栽培をはじめる冬の薔薇が文学性と、寄る辺のない人たちへの想いのように感じる。
朝ドラはじめ流されていく人物を描いた作品が増加

映画『カイジ ファイナルゲーム』公式サイトより
どれもみな、止めるきっかけを見つけることができず、ずるずると今の暮らしを続けていく人たちの物語だ。
彼らはなぜ、止められないのか。なぜ、変わることができないのか。「冬薔薇」の伊藤健太郎の黒い瞳の奥にその答えを探して覗(のぞ)き込んでしまう。
<文/木俣冬>木俣冬
フリーライター。ドラマ、映画、演劇などエンタメ作品に関するルポルタージュ、インタビュー、レビューなどを執筆。ノベライズも手がける。『ネットと朝ドラ』『みんなの朝ドラ』など著書多数、蜷川幸雄『身体的物語論』の企画構成など。Twitter:@kamitonami
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