気が付けば、彼の車に乗ったあの一夜から1年が経とうとしていました。そんなある時、萌夢さんは妊娠しました。

しかし、バンドにとって大切なチャンスとなるライブツアーが差し迫っていました。
「ツアーが成功すれば、バンドはもっと大きくなって活躍の場が増えるはず。今すぐにでも妊娠した事実を打ち明けなければと思いつつも、いつにもましてピリピリしている彼を前にすると、打ち明ける勇気も気力も無くなってしまいました……」
萌夢さんはボロボロになっていましたが、逃げ出す気力も、立ち向かう気力も無くなっていたのです。
ある日のライブ終わりのことです。
メンバーのために飲み物を買おうと、搬入口近くの自販機に向かいました。自販機でコーヒーやジュースを買っていると、背中に視線を感じます。ちらりと後ろを振り向くと、中年男性の姿が見えました。

辺りに人気はなく、少し不気味に思っていたのですが、その中年男性はいっこうに立ち去ろうとはせず、直立不動でこちらをじっと見続けていました。
手早くジュースを買い、バッグに放り込んで立ち去ろうとした際に、振り向きざまに、中年男性の顔をちらりと見ました。その顔を、萌夢さんは知っていました。
萌夢さんの父でした。
自分の記憶の中の父より、少し皺が増えて老いた父。黙ったまま、微笑を浮かべて手を広げました。萌夢さんはその瞬間、涙が溢れて、父の胸に飛び込みます。