もちろん、時代とともに変わった部分もあります。最近のスピッツはメロディが“短く”なっているのです。
たとえば「ロビンソン」のサビを聞けば、横幅をたっぷり取ったダイナミックな時間軸のメロディだと分かるでしょう。「楓」も同じタイプの曲です。また「涙がキラリ☆」はサビの中にA、B2つのメロディがあるような曲で、文章のように起承転結を持っている。これがかつてのスピッツでした。
けれども、いまのスピッツは“もう少し聴きたい”というところでメロディを切ってしまいます。「優しいあの子」に至っては、サビらしいサビも存在しません。<優しいあの子にも教えたい>、ここだけ。しかもほぼ4分音符。
しかし、この棒読みのように聞こえる部分が曲のタイトルをくっきりと浮かび上がらせる。これは作曲家というより、デザイナー的なアイデアなのではないかと感じます。
「紫の夜を越えて」はメロディ同士の接続においてこの省略が効いています。サビへ行く手前、通常ならもう少し前フリ的なパートを置きたいところですが、突然場面が転換したようなスピード感が新鮮でした。
こうした変化の理由として、カラオケから動画、サブスクへの移行があるのではないかと想像します。気持ちよく歌えるメロディが長ったらしい時代になってしまいました。世間の空気をひしひしと感じていたはずです。
それと同時に、ソングライターとしての草野マサムネがいい具合に枯れてきたのではないでしょうか。美しさへの執念は、ほどよい物足りなさの余韻に生まれ変わった。それがタイミングよく時代にマッチしたのではないかと感じるのですね。