彼は既婚でふたりの子どもがいた。だが妻は実父の経営する会社の専務としてバリバリ働いており経済的には余裕があったため、それ以来、ときおり上京するようになった。
「それでも1ヶ月に1回、会えればいいほうだった。彼に会えないと身体がガクガクすることがあるんです。自分の身体が自分のものでないような。彼と時間を過ごすと、また身体感覚が戻ってくる。
とにかく彼と会っていないと心も体も不安定でどうしようもないんです」
出会ってから半年後、彼が絵の勉強も兼ねてフランスに旅行をするから一緒に来ないかと言ってくれた。「もう帰ってこなくてもいいんだ」と彼はつぶやいて、じっと彼女の目を見つめた。ふたりで何もかも捨てて、新しい世界へと旅立つ。彼とならそれもいいかもしれない。
「考えに考えて、私も覚悟を決めました。久々に実家へ行って両親と過ごし、心の中で親にお別れもした。夫には連休と有休を使って、女友だちと旅行すると言ってありました。夫は『いいなあ。楽しんでおいで』と言ってくれていたんです」
当日、スーツケースを引きながら家を出たときの気持ちを、エリカさんは昨日のことのように思い出す。もう帰ってこないかもしれない。夫に心の中で手を合わせた。

「成田で彼と待ち合わせていました。彼の姿が見えてそちらに足早に向かっていったとき、横からすっと現れたのが、会社に行ったはずの夫。
『行くな』『やり直そう』と夫が叫んだんです。目の前の夫の向こうに彼が見える。夫を突き飛ばして彼のもとへ行くこともできました。そうしようかと夫を見たとき、夫の目から大粒の涙がぼろぼろこぼれ落ちているのが見えて……」
ちょっと待ってと彼女は深呼吸した。ここで情にほだされたら後悔する、と彼女は急に冷静になった。自分はどうしたいのか、誰を愛しているのか、誰と一緒にいたいのか。
「『
子どもなんてどうでもいいよ。オレはエリカが好きなんだ、エリカと一緒に生きていきたいんだ』と彼は大声で言いました。あ、私が聞きたかったのはこの言葉なんだと思った。スーツケースを放り出して夫に抱きつきました。ふと見ると、彼が搭乗口のほうに向かってひとりで歩いていくところだった。申し訳ない気持ちはあったけど、私は夫に抱きついたままだった。離れたくなかったんです」