――ご自身が両親の「不倫」の末に生まれた子供だったことを知ったときはどう感じたのでしょうか。
ハミ山クリニカさん(以下、ハミ山):自分が不倫の子であることに対して絶望感というよりは、原因不明の体調不良にやっと病名が付いたような安心感がありました。
それまで、家庭の中にヒントが転がっていたのに現実を見ないようにしていたところがあったんです。受け入れがたい気持ちも多少はあったのですが、確定した事実は変えられないし、むしろ「だからうちはこうだったのか」と納得する気持ちの方が大きかったです。
――ハミ山さんが家庭の中で違和感を持っていたのはどんなことだったのでしょうか。
ハミ山:父が普段から家にいなかったし、父と母の苗字が違っていました。でも幼い頃は他の家庭を知らないし、両親にどういうことなのか確認することを避けていたところもありました。聞くと事実が確定してしまうので、触れないようにしていたのかもしれません。
なんだか矛盾しますが、知りたい気持ちと知りたくない気持ち、どちらもあったような気がします。
小学生の頃は両親の仲が良好で、父は毎日のように家にいました。ただ、父には別の家庭があり、うちは日常を過ごす家族ではないからか、家にいるときはゴスペルを流しながら紅茶を淹れたり、父が豪華な料理を作ってくれたりと特別な過ごし方をしていた気がします。
お出かけも美術館や、公園で一眼レフで写真を撮ったりお寿司屋さんに行ったり、やたらと優雅な感じでした。本当に毎日一緒に生活をしていたら、そんな綺麗な過ごし方ばかりできないはずですよね。

『なんで私が不倫の子 汚部屋の理由と東大の意味 』(竹書房)
――ハミ山さんにとって、お父さんはどんな人だったのでしょうか。
ハミ山:休日にだけ現れて、いいものを食べさせてくれたり、おもちゃを買ってくれたり優しくしてくれる親戚のおじさんみたいな感じでした。
優しくて博学な憧れの父でしたが、実は短気でイライラしやすいところもありました。でも都合のいいときにしか家に来ないので、ずっと好きでいられたのだと思います。
父の死後に異母兄弟の兄から話を聞くと、父は全然おしゃれではなかったし、バラエティ番組を見てガハハと笑ったり、歌謡曲を聞いたり、休みの日には運動靴で裏山を散歩するのが趣味の普通のおじさんだったらしいです。
私の家にいるときは“ちょっとかっこいい俺”を演出していたんだなと思いました。20年近く2つの家族を使い分けていた父でしたが、晩年は病気になって体調面でも金銭面でも余裕が無くなって、いろいろなことが崩れてしまったのだと思います。