最後の最後で、ルディが、自由への希求を切実に歌うボブ・ディランの「I Shall BeReleased」がまた心を激しくかき乱す。
それまでずっと、肩を落としてうつむきがちで忍耐してきたルディが、世間の偏見や差別の圧をはねのけて、己の鎧を脱ごうとする瞬間の歌声は、鶴が自分の羽を織ってできた糸を思わせた。不謹慎かもしれないが、東山紀之はこんなにも最高のタイミングで演じることができたのではないかと思うのだ。
これまで東山紀之が美しい鎧をまとっていたのは、自分が信じる、人気タレント東山紀之のとしての攻めた生き方のためで、彼はそれを脱ぐ必要性を感じていなかったのではないか。それがいま、世間の批判の弓矢や剣が襲ってきて、自分を守るために必死で鎧を着込むことになった。
ルディが、内に柔らかな心を持ちながら、ときとして、激しく、やんちゃな態度をとる、そういう守りの鎧の意味合いを、今こそ東山紀之は実感したのではないだろうか。
俳優は、自分と違う役を演じるものとはいえ、ベースは自分でしかない。だから自分の体験や状態と役を重ねて演じるしかない。演技で泣くとき、ペットや親と死に別れたときにのことのを思い浮かべるという話はよく聞く。
たとえば、俳優がお腹が痛いと思っていると、まったく別のシチュエーションでものすごく悲しそうに見えたりするし、照明が熱くて汗をダラダラかいていると、泣いてるように見えたりする。そうやって、自分の状態を役に重ねて、芝居のクオリティーをあげることも技術である。
見ている側も、勝手に物語と別の、俳優のイメージと重ね合わせてしまうもの。筆者もまさにそのひとりであったわけだが……。
今回、世の中の東山に対するイメージと、この役の悲劇性が重なることも可能な状況で、この舞台が上演されたことは、東山紀之、最後の舞台として伝説となるだろう。
これまで決して脱がないできた鎧は、脱げなかったのではなく、脱がないという強い意思のもとであり、ここぞという役で脱いだとしたら、やっぱり東山はかなりの“役者”だとも思う。
その一方で、せっかくの名演技も、それとこれ(性加害の問題)は違う。一緒にしたら失礼だという見方もあるだろう。
いずれにしても、東山紀之は「チョコレートドーナツ」で、ひとり、ひとりの自由と尊厳とは何なのか、この世に誰もが等しく思うがままに生きることの困難の重みを強く感じさせてくれたのだ。
<文/木俣冬>
木俣冬
フリーライター。ドラマ、映画、演劇などエンタメ作品に関するルポルタージュ、インタビュー、レビューなどを執筆。ノベライズも手がける。『ネットと朝ドラ』『
みんなの朝ドラ』など著書多数、蜷川幸雄『身体的物語論』の企画構成など。Twitter:
@kamitonami