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『紅白』のAdoに「カッコ良すぎる」絶賛の声も…顔出しNGが“期間限定の物珍しさ”と感じる理由

目隠しをして歌うSia、yamaは姿で伝えているが

 Adoに似たタイプでは、海外ならSia(シーア)、日本のyamaなどが目隠しをして歌っています。それでも彼女たちは一応舞台に姿を見せています。
 すべてさらけ出すわけではありませんが、自分の身ひとつでステージに立つというハードルはクリアしている。まなざしが何を語るかは分からなくても、指先や筋肉のこわばりから曲のテンションが伝わってくる。  その瞬間に遭遇(そうぐう)できること。それが音源とショーとの大きな違いです。

現状のAdoの面白さは一時の飛び道具

 そう考えると、厳しい言い方になりますが現状Adoのしていることはライブパフォーマンスではなく音源のビジュアル化にとどまっているのではないでしょうか。ライブをしながら何も目撃させないのは、しばりプレイのような面白さもありますが、反動的な刺激は一時の飛び道具に過ぎません。  好意的に見れば、Adoの存在とそれを受け入れるオーディエンスの形をあわせて、いわゆる“ネオ・ガラパゴス”なのでしょう。  けれども、筆者にはその構図が少し心もとなく見えます。抑えるべき本質を度外視したエンターテイメントは持続し得るのか?  圧倒的に消費されているからこそ、疑問が募(つの)るのです。 <文/石黒隆之>
石黒隆之
音楽批評の他、スポーツ、エンタメ、政治について執筆。『新潮』『ユリイカ』等に音楽評論を寄稿。『Number』等でスポーツ取材の経験もあり。いつかストリートピアノで「お富さん」(春日八郎)を弾きたい。Twitter: @TakayukiIshigu4
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