“子供らしさ”を大人が用意した世界での小道具として消費
たとえば、歌手、村方乃々佳が世に出るきっかけとなった「いぬのおまわりさん」を思い出してみましょう。

『ののちゃん2さい こどもうた』(キングレコード)
<まいごのまいごのこねこちゃん>のオーバーなアクセントと、どこか口をすぼめてデフォルメされた発音には、すでにののちゃんが自分に託(たく)された“子供らしさ”を必死に演じている気配がうかがえます。自然ではつらつとしたものではなく、一定のトーンで隙(すき)を見せないテクニックによって加工された“子供らしさ”なのですね。
ののちゃんの歌うあいみょんに違和感を覚えたのも、まさにこの部分でした。若者の恋愛感情など全く理解しようもない幼児にそのような曲を歌わせるおかしさを見世物にする。
どういうことかというと、歌詞の内容をくり抜いて空っぽにして、大人っぽい言葉の形だけが残ったものを、ののちゃんが機械的になぞるということです。
つまり、大人が用意した書き割りの世界の小道具のひとつとして、「子供」が消費されているだけなのではないか、と感じるのです。
さらにここには二重の歪(ゆが)みが生じてきます。まだ子供であるののちゃんが、大人の目線が作り出した記号としての「子供」を演じなければならない苦しみです。
つまり、実人格で子供でありながら、同時に“プロの子供”という仕事をこなす大人のタスクが課せられているのです。
2歳、
4歳、
6歳のときの歌をチェックしてきましたが、この脱ぎ着できない衣装を常にまとわされている圧迫感が、村方乃々佳の芸風の本質なのではないかと思います。