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「私の悪口は受け入れよう。だけど…」高嶋ちさ子、“姉のトラブル”への批判に反論。公の場で家族を語る“リスクと負担”

“笑いに変える”プレッシャーがもたらすもの

しかしながら、家族の日常を“新作”として提供し続ける中で、飽きられてはいけないという作為が芽生えてしまったとしたらどうでしょう。
1027_高嶋ちさ子さん③

画像:株式会社キョードーメディアス プレスリリースより(PRTIMES)

実際、今回の暴行トラブルをラジオ番組で話したことについて、高嶋さんはこう明かしています。「生放送ということを途中から忘れ、はじけ過ぎました。そこは反省してます。トークにはサービス精神というものがあり、トークは盛ってなんぼということもあり、その辺をご理解いただきたい」 つまり、家族についての話を必要以上に面白くするためには、それ相応の脚色もやむを得ない、と言っているのですね。 一度脚色をすると、新しいエピソードを披露するごとに新鮮味を持たせなければならなくなります。バラエティ番組における新鮮味とは、過剰さや奇抜さの形をとります。 初めはコントロールできると思うかもしれません。しかし、視聴者の期待に応えるうちに、その過剰さが雪だるま式に膨れ上がったとき、いったい私たちは何を目にすることになるのでしょうか。 ダウン症のある親族が起こした警察沙汰。これすら笑いに変えなければならない高嶋ちさ子さんにかかる負荷は、想像を超えるものでしょう。 <文/石黒隆之>
石黒隆之
音楽批評の他、スポーツ、エンタメ、政治について執筆。『新潮』『ユリイカ』等に音楽評論を寄稿。『Number』等でスポーツ取材の経験もあり。いつかストリートピアノで「お富さん」(春日八郎)を弾きたい。Twitter: @TakayukiIshigu4
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