では、人は自分の見た目とは無関係に好きなことを自由にできるのか。“容姿いじりをしてはいけない”という呼びかけには、これに対する道徳的な異議を含んでいるからです。
そこで思い出すのがシンガーソングライター、山下達郎のエピソードです。日本を代表するポップス職人で妥協を許さない繊細で正確な作風を誇る山下氏ですが、一方でパンクロックやハードなロックを好んで聴くことでも知られています。

画像:株式会社エフエム東京 プレスリリースより(PRTIMES)
しかし、彼は自分ではそのようなタイプの音楽を演奏することを選びませんでした。その理由が、他ならぬ自身の容姿なのです。2011年8月5日のラジオ番組「ANSWER」(bayfm)で、こう語っています。
<ほんとはだから、運動神経ぜんぜんダメなんですね。ブラバンだったという事もあり、運動全くダメなので。バク宙とかね、そういうのが出来たら、もっとメタルなものとか、お化粧系…じゃかなわないかな、ルックスはアレだから。>
冗談めかしてはいますが、それでも山下氏は重要な指摘をしています。それは、ルックスとアクションには相関関係があるということです。つまり、彼のルックスは彼のやりたい音楽にふさわしくなかった。だから、別の音楽的要素としてソフトでメロディアスなポップスを選んだのだと言っているのです。
つまり、山下氏は自らの容姿に対して冷静な距離を持てたからこそ、自分自身の限界を知ることができた。それゆえに、他に広がる金脈を発見することができたわけです。
俗に言うイケメンや美女という褒め言葉も、このような区別が社会に厳然として存在していることの裏返しだと言えます。どれだけ見た目で判断してはいけないと言おうとも、逆にそのように建前を強化すればするほど、美醜のフィルタリングは固定化されていくのです。
PUFFYの「とくするからだ」という曲は、まさにその身も蓋もない事実を歌っています。
<例えば才能とてもある 二人を見くらべよう 片方はまあまあ ひとりはグー どっちが雇われる 女の人に限った話はしていないよ 男の人に限って うろたえる>(詞・奥田民生)

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およそ30年前の曲ですが、社会は不公平であるという苦い真理を歌ったJ-POPらしからぬ一曲です。奥田民生は、それを覆い隠すことの方が罪であるということを、軽妙なユーモアで暴いています。
これはシェイクスピア作品などの翻訳で知られる批評家、福田恆存に通じるところです。福田は、人が見た目で判断されても仕方ないことを次のように言っています。
<なるほど、美醜によって、人の値うちを計るのは残酷かも知れませんが、美醜によって、好いたり嫌ったりするという事実は、さらに残酷であり、しかもどうしようもない現実であります。それを隠して、美醜など二の次だということのほうが、私にはもっと残酷なことのようにおもわれるのです。
もちろん、人格が努力でどうにでもなりうるものなら、その程度に、顔の美醜も持主の自由意志に属するものなのであります。同時に、美醜が生れつきのもので、どうにもならないものだというなら、おなじように、人格といわれるものも、どうにもなるものではなく、やはり生れつきのものだといえましょう。>(『私の幸福論』 ちくま文庫 p.16)
福田が否定しているのは、“容姿いじりをしてはいけない”という言葉に含まれる、“人は内面で判断すべき”という理想論です。そして、見た目と内面を切り離して評価できるほど、人間は都合良くできていないということも言っているのです。
以上を踏まえて、形式的に、まるで法律遵守のように容姿いじりを禁じ合う社会が本当に健全なのでしょうか? それは他者を傷つけないことよりも、感性を抑圧することでチープな安心を細々と分かち合う貧しい社会になってしまう可能性はないでしょうか?
確かに「格闘キャスト」はミスを犯しました。しかし、その間違いが必要以上に炎上したことは、言葉と感性を極めて甘く見ている現代社会のいい加減さ、つまり欺瞞を映し出しているのです。
<文/石黒隆之>
石黒隆之
音楽批評の他、スポーツ、エンタメ、政治について執筆。『新潮』『ユリイカ』等に音楽評論を寄稿。『Number』等でスポーツ取材の経験もあり。いつかストリートピアノで「お富さん」(春日八郎)を弾きたい。Twitter:
@TakayukiIshigu4