
エッセイ集『ひかりぼっち』(イースト・プレス)※Amazonより
その一方で、被害者のセクシュアリティという極めてプライベートな情報をためらいもなく漏らしてしまう迂闊さにも驚かされます。
つまり、官僚的な文言による謝罪は、ひとまず外面を整えることが目的だったのではないかという冷めた見方もできてしまうのです。
そんな中で、唯一本音と思しきものがこぼれた箇所がありました。
<またこれまで行なってきた社会運動や音楽性への期待や信頼を大きく裏切り、尊厳を踏みにじったことはどれだけ謝罪しても償いきることはできません。>
この場面では、自身の芸術性とキャリアの評価を絡める必要は全くありません。それはGEZANのファンが考えることであって、マヒト自身がわざわざ言及して、あたかも「自分の価値を自分でおとしめるという愚かな行為をしてしまいました」といった懺悔をすべき局面ではないからです。
にもかかわらず、「社会運動や音楽性への期待や信頼を大きく裏切り」と言ってしまうところに、まだアーティスト、ミュージシャンとしてのプライドが顔をのぞかせている。厳しい言い方をすれば、この期に及んでも、まだ甘さが見えてしまうのです。

7月30日、前日の謝罪文の「追記」として投稿された文章。(マヒトゥ・ザ・ピーポーのXより)
さらに驚いたのは、謝罪文本編の翌日7月30日に投稿された[追記]と称する文章です。
<性自認や加害の背景に関する記載は、シーン全体のジェンダー意識向上と再発防止という被害者の方の意向を踏まえ、被害者サポートチームを通じて被害者の方の確認・了承を得たうえで掲載しております。>
どこから手を付けたらいいのかわからないほどツッコミどころがありすぎます。まず「シーン全体」という言葉です。これはマヒトが評論家であるならばまだ理解できますが、改めて、彼は当事者であり、加害行為に及んだ立場の人物です。それなのに「シーン全体」を見渡す高い視座に自らを置いていることが明らかにおかしい。
さらに、「再発防止」とか「サポートチーム」といった語句。これは完全にマヒトとは別人格の、企業ならば異なる部署から発せられるべきワードです。
もはや、マヒトは問題の本質が何なのか、そしてどのように振る舞うべきなのかを全く見失っているのでしょう。
あっさりとアーティストであることを諦めたそつのなさすぎる逃げ口上と、一方で細部における詰めの甘さから漏れ出るアーティストとしてのプライド。とどめに、企業の危機管理の下手な真似事しかできなくなった子供じみた対応。
謝罪文は、GEZANの作品以上に人間性を浮き彫りにしてしまったと言ったら言い過ぎでしょうか。
<文/石黒隆之>
石黒隆之
音楽批評の他、スポーツ、エンタメ、政治について執筆。『新潮』『ユリイカ』等に音楽評論を寄稿。『Number』等でスポーツ取材の経験もあり。いつかストリートピアノで「お富さん」(春日八郎)を弾きたい。Twitter:
@TakayukiIshigu4