その頃から店員さんに挨拶をされるようになった私は、戸惑いながらもひっそりと笑顔を返していた。そしてある日、ある店員さんが私に一声かけてきたのだ。
私はびくっとしたあと、いつも長居して申し訳ないという気持ちと、恥ずかしい気持ちで声を裏返しながら返事した。すると彼女はゆっくりこう言ってきた。
「あの、いつもPCでお仕事されていますが、もしかして、脚本家さんですか?」
え! 脚本家!? 橋田寿賀子的な? 宮藤官九郎的な!?
たしかに、私が書いている原稿はインタビュー原稿が多いから、遠目からみてカギカッコが多いことに気が付いたのかもしれない。
そこでなぜかパニックになった私は、この店員さんの期待を裏切ってはいけないと思い、なぜか「……はい」と答えてしまったのだ。
店員さんは目を輝かせ
「わぁ! やっぱり! すごいですね!」と大声で喜んでくれたのだ。
……どうしよう。でも、もう後には引けない。

よく美容院で職業を聞かれるが、いろいろめんどくさくて「歯科衛生士です」とウソをついたことを思い出した。あの後、歯科衛生士について、マスクをして仕事をするくらいの知識しかない私は美容師さんに歯のことを根掘り葉掘り聞かれて死ぬほど後悔したのだ。それから私はその美容院には一度も足を運んでいない。
まさにその日のデジャブだ。
でも、このカフェは私が調べた結果、最寄り駅で一番居心地がいい。こんな嘘で失うわけにはいかないのだ!
よし、次に聞かれたときに、本当のことを話そう。
私は、脚本なんて書いたことがないと!
――しかしその日は二度と訪れなかった。彼女はその後、すぐにそのカフェのバイトを辞めてしまったのだ。
きっとその彼女の中で、いまも私は憧れの脚本家でいることだろう。このとき、もう二度とノリでいいかげんなウソはつくのをやめようと思ったのだった。
そして今日も、私はそのカフェで原稿を書き続けている。
<TEXT/吉田可奈 ILLUSTRATION/ワタナベチヒロ>
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【吉田可奈 プロフィール】
80年生まれ、フリーライター。西野カナなどのオフィシャルライターを務める他、さまざまな雑誌で執筆。23歳で結婚し娘と息子を授かるも、29歳で離婚。座右の銘は“死ぬこと以外、かすり傷”。Twitter(
@singlemother_ky)

- ママ。80年生まれの松坂世代。フリーライターのシングルマザー。逆境にやたらと強い一家の大黒柱。

- 娘(8歳)。しっかり者でおませな小学2年生。イケメンの判断が非常に厳しい。

- 息子(5歳)。天使の微笑みを武器に持つ天然の人たらし。表出性言語障がいのハンデをものともせず保育園では人気者
※このエッセイは隔週水曜日に配信予定です。