Buzz Feed Japanの記事(12月13日配信)では、<元のブログはTwitterやFacebookなどで6万以上シェアされ、ネットメディアに始まり、新聞やテレビも次々と取り上げた。>として、「日本死ね」が世の中を動かしたと論じていますが、果たして本当にそうだと言えるでしょうか?

例のブログの「中の人」がツイッターを始めたが、内容がちと堅いせいか、こちらはまだフォロワー1万人未満。https://twitter.com/hoikuenochita
現在も、全国のあちこちで保育園建設反対運動が起きているのはご存知の通り。2016年4月に開園予定だった認可保育所などのうち、「住民との調整」ができずに延期・中止になったものは7自治体13園に上るそうです(朝日新聞調べ、主要82自治体に調査)。
口先では“オリンピックなんかやめて保育園を増やせ”と威勢よくしていても、いざ近所にやってくるとなると、“勘弁してくれ”となる(それぞれに反対理由はあるにせよ)。だったら最初から“保育園など要らない。母親が家に入って育てろ”と言っていた方がまだ分かりやすい。
なのに、自分が安全地帯にいる保障が確認できるときにだけ、政治的に正しい社会改良を叫ぶ。現在の日本で飛び交う“保守”だの“愛国”だの、“リベラル”だの“反権力”だのも、全てこうした土壌から生まれた言葉に他なりません。ヒマを持て余しているがために、国を愛したり、権力に逆らったりする芝居をしているだけ。全く寒々しい光景です。
これを、「茶の間の正義」というのです。「日本死ね」に盛り上がった人、嘆き悲しんだ人、どちらにも共通している性質でしょう。

<
老いも若きもフヌケである。革命の気力はみじんもないと見くびって、ジャーナリズムはこのなん十年、茶の間の正論を吐き続けてきた。
この手の修身から何が生まれるか。怒ったふりが生まれる。泣きまねが生まれる。その他もろもろの「押すとあん出る」が生まれる。
それだけで、おしまいである。>
(山本夏彦著『茶の間の正義』中公文庫p.26-27、初版1967年文藝春秋刊。改行は編集部)
遅ればせながら参戦してきた
窪塚洋介は、「
生きてるのは国民だけだよ」「
日本政府なんてとっくに死んでただろぅ?」とツイートしました。確かにおっしゃる通りかもしれません。
しかし、同時に逆の可能性も考えてみる必要があるのではないでしょうか? そんなことを思う今日この頃です。
<TEXT/石黒隆之>
⇒この著者は他にこのような記事を書いています【過去記事の一覧】石黒隆之
音楽批評の他、スポーツ、エンタメ、政治について執筆。『新潮』『ユリイカ』等に音楽評論を寄稿。『Number』等でスポーツ取材の経験もあり。いつかストリートピアノで「お富さん」(春日八郎)を弾きたい。Twitter:
@TakayukiIshigu4