「小林麻央さん逝去」がつらい人へ…妹をがんで亡くした体験から思うこと
6月22日夜に亡くなった小林麻央さん。翌23日の市川海老蔵さんの会見に、もらい泣きしてしまった人も多いのではないでしょうか。
実は筆者も11年前に、30代だった妹を消化器系のがんで亡くしました。妹にも当時6歳と4歳の子どもがいたし、看病に奮闘する姉・麻耶さんの心労は他人事とは思えませんでした。
がん闘病中の方やその家族で、麻央さんのブログに励まされていた人は多いと聞きます。また、病気に限らず何かつらい状況にいて、「麻央ちゃんも頑張ってるんだから自分も頑張ろう」と感じていた人は少なくなかったでしょう。
そんな方々が、今ショックを受けているのではないか? それが気がかりです。
というのは、妹の闘病中に有名人ががんで亡くなったニュースを聞くのが、本人も家族もつらかったからです。
たとえば歌手の本田美奈子さんが、白血病で亡くなった時(2005年)。妹は病院でテレビを見てないかもしれないので黙っておこう…と思った矢先、見舞いに行ったときに子どもが「ママ、本田美奈子死んじゃったね!」と元気に報告してしまい、アワワとなったこともありました。
「痛くて怖い治療をして、治るためだったらいいよ。でも、がんって着々と死ぬじゃん?」と静かに言う妹に、「そうだねぇ…」としか返せませんでした。
そこで、「誰々は生還した」と挙げればよかったのかもしれません。でも、生きていることが「願いが叶った」良いことで、死んだことは「やっぱりダメだった」悲劇的なことなのか? それは違うんじゃないか?
医者に「もう打つ手がない」と言われていた妹を前に、そんな気がしたのでした。
小林麻央さんが「がんばる姿」を励みにしていた人たちは、いま、気持ちにどう折り合いをつけたらよいのでしょうか? 心理カウンセラーの木附千晶さんに聞きました。木附さんも、子供同然の犬を今年がんで亡くし、その体験を女子SPA!で連載しています。
「自分にとって大切な存在を失うことを『喪失体験』と言いますが、『悲しい』のであれば、その気持ちを大事にすることです。中途半端に『前向きになろう』とか思わずに、きちんと悲しむことです」(木附さん)。
病と「闘う」という言葉は、裏を返せば「生還したら病に勝った、死んだら病に負けた」という含みがあると感じます。私も、妹の闘病中は、生きることを願っていたけれど、ほとんど必敗の闘いでした。
「でも、死が負けだと言うなら、人は100%負けるわけですよね。誰だって必ず死ぬんですから。大事なのは、死という結果でなく、いかに生きたかというプロセスです。
麻央さんはお子さんもいて、どんな最期を迎えるかすごく考えたと思うんですね。自分が納得できるように生きられたならーー勝ち負けで言うのはおかしいけれども、最大の勝利と言えるのではないでしょうか。
ご家族も、もっとああすればよかった、という思いがあると、後でつらい。結果として亡くなっても、『できる限りのことはやった』と思うような関わりができたかが重要でしょう」(同)
治るという「希望」がもう持てなくなったあと、私はただ、妹を一日1回でも笑わせよう、としていました。
海老蔵さんの会見にも泣きましたが、私が一番感動したのは、麻央さん死去の翌朝のブログでした。海老蔵さんは「なるべくいつも通りに過ごします」「いつもと変わらぬ 楽屋。どんな事があろうと、舞台」等と書いています。
彼の内心はわかりませんが…私の家族も、妹の死んだ日、仕事に行きました。死は悲劇的なハプニングではなくて、ずっと前から覚悟はできていたのです。でも、覚悟と絶望とはなにかが違う。
そんなことを思い返しました。
<TEXT/女子SPA!編集部、Y・M>
⇒この記者は他にこのような記事を書いています【過去記事の一覧】