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きみは、きみのことを知らない。――『トーマの心臓』について/最果タヒ

最果タヒ きみを愛ちゃんきみを愛している。
物語のなかにある、その言葉、
だれかの書いた言葉のなかにある、その意思。
現実より自分より、
それが信じられることがある。
厳密に言えば、ひとは、
愛のためにすべての人生を、
燃やすことなどできないのかもしれない、
けれど、
愛のために生まれた作品たちに触れたなら、
その先にある風景を知ることができるだろう。
これは、そういう連載です。
きみを愛している。
その意思に、会いにいくための連載です。

きみは、きみのことを知らない。
  ——『トーマの心臓』(萩尾望都)について


 『トーマの心臓』を読むと、「愛とは何か」ということを語ることができなくなる。まさしく愛の物語ではあるけれど。けっして、何か一つだけの答えを見つけ出すための物語ではない。感情と同じようにこぼれおちていく最初の愛情、静かに傷つきながらもすべてに宿っていく愛情、何もかもを知りながら沈黙し、待ち続けることのできる愛情。私たちの日々はどれもが違っていて、共感も同情もどこかすれ違いだ、わかりあえない中で、相手を喜ばすために嘘をついたとして、その嘘は、罪となるのだろうか。自分自身を汚れていると思っていても、涙するその人の前では優しく、天使のように振舞おう。そうして「優しかった」とその人が語るとき、彼は間違っているのだろうか? いや、本当にきみは、優しかったのだと思うよ。


 きみは、きみであることを許してほしい。

 堅物な委員長・ユーリは、自分を律し、本音を語らず、そうして他者との関係すら平坦なものにしようとしている。平等に、誰に対しても同じ態度で。それは非常に冷たく、残酷なことだ。同学年のヘルベルトがユーリにつっかかるのは、「ユーリが自分を見てくれない」ということを感じ取っていたからだろう。けれどユーリは、他者を軽んじていたのではない。ただ、他者と見つめ合う権利を自分に見出していなかっただけだ。自分を許せず、沈黙し、自分に罰を与えていただけ。

 母を失ったことを知ったその日の夜、「ひとりでいるのさびしくって」と言った転校生エーリクに、ユーリは「ぼくなら死んだって人まえでいえないような言葉だ」と感じている。さみしくて、涙が出てくる、そのことを他者に伝えられる、それはまっすぐで、当たり前のことにも思える。エーリクは、好きという感情にもまたなんの抵抗も持たず、自然なものと受け止めていた。自分から溢れ出ていく思いは、理由や権利など関係なくて、溢れていくものだ。それで他者と衝突もするだろう。けれど、それをなかったことにはできない。エーリクは、彼一人が「エーリク」なのであり、それを放棄することはない。全てを押し殺すような、そんな選択肢があることすら彼はまだ知らずにいる。


 好きという思いがただそのまま愛として結晶化していく。思うことをそのまま溢れさせていけるその純粋さは、感情を押し殺す他者の代わりに、思いを吐き出させていくのかもしれない。エーリクが泣いたそのとき、涙はユーリの分も、ともに流れていくようだった。たとえ彼が、ユーリの過去を、何も知らないとしても。

 自らを責め、沈黙し、そうして、他者を拒絶するしかなくなるユーリの態度。度合いは異なるとしても、そうした瞬間は私たちにもまた訪れているだろう。ずっと、エーリクのようにはいられないんだ。愛され、それを当たり前と信じることができたあのころ。自らの存在を疑わず、自分らしくあることを疑わず、感情がそのまま表情や言葉に直結していく、そんな時代が私たちにもたしかにあった。けれど、それでも、とうに過ぎてしまっていた。

 彼らにはある翼が、自分にはない。ユーリはつねに、自らの罪を意識し、そうして他の幸せな子供たちを、離れたところから見つめている。彼らは、ユーリを信頼している、厳しいけれど優しい委員長だと。ユーリにとって、それは偽物でしかなかった。相手が知らない、自らの罪。嘘をつき、演技をして、ユーリは彼らを騙しているのだろうか? 彼らが見ている「自分」は、本当にただの偽物なのだろうか? 私は、違うと思う。それもまたひとつの真実なんだ。自らを許せないとき、そうした他者の中にある「自分」が、救いになることもあるだろう。それが、「愛」と呼ばれる瞬間でさえあるのかもしれない。


 友人のオスカーは父親と放浪する間、「ぼくパパといると悪い子じゃなくなるんだ!」と言った。ユーリは、母を失い涙するエーリクのために、その日だけは「天使のふり」をした。それは、けっして嘘ではなかった。ユーリ自身にとっては「ふり」だとしても、そのとき、彼を見つめていたエーリクにとっては、本当に「天使」だったのだ。

 私たちは、自分こそが、自分のことを一番に知っていて、自分の本当のことはこの手で握りしめているのだと信じている。けれど、実際は全く異なるのかもしれない。たしかにエーリクのように、自分を疑わず、外へと感情を溢れさせていけるならば、彼は彼そのもので、そうして他者もほとんど同じ姿を見つめることができるのだろう。けれどそのままではいられなかった、私たちはすこしずつ、自分を手放してきてしまって、それでも、誰かがその欠片を遠くから拾って、届けてくれる。すこしだけ、形は変わっていた。けれど、まだ、本物のままで。それを、信じてみることが、愛を受け取るということかもしれない。人はさびしいものだと、トーマは言った。ひとりでは生きていけない、愛を知らなければ生きていけないさびしい生き物。そうでなければきっと、自分さえ見失ってしまうのだろう。


 エーリク。彼は、自分の存在を疑問に思うことのない、幸福な子供だった。けれど、自分とそっくりなトーマがいる学校に転校してくることで、その状況から突然、はみだすこととなった(トーマはしかも自分が転校する直前に自殺している)。それは、ユーリのように自分を罪人と捉え、自ら進んで追放されるのとは違っていた。ある一つの奇跡、巡り合わせのような衝突だ。エーリクは変わらず、自分を手放さずにいつづけた。それでも、他者は、自分を通じてトーマを見ている。「トーマはそんなことしない」「トーマはそんなこと言わない」、全く知らない人間と自分が重ねられ、だれも自分自身を見ようとはしない(でもだからこそエーリクは、ユーリの瞳に宿るトーマへの愛おしさに気づくことができたのだ)。物語の終盤、母親を失ったエーリクは、トーマの両親から養子にならないかと提案をされもした。彼はそれら全てに、反発をした。自分が自分であることを、強く意識し、そうして主張をやめなかった。

 ユーリは、「罪人としての自分」と、他者が見つめる「自分」の差異に苦しみ、その2つを結びつけまいと、他者のまなざしに背を向けていた。けれどエーリクは、自分はエーリクだと語りつづけ、だからこそ、自分に似たトーマに興味を持つことができた。自分がトーマでないように、彼もまたエーリクではない。ならば、トーマとは誰なのか? 彼はその影を丁寧に探しはじめたのだ。そうして彼は、トーマのユーリへの愛情にたどり着くこととなる。この答えに、たどり着くこととなる。


「ぼくがトーマでもエーリクでも
 ぼくの顔かたちがどんなでも
 なんのかわりもないんじゃないだろうか
 結局はここにこうしてある思いが
 ユーリに向かってることが
 一番たいせつなことなのじゃないだろうか

 だれも見てないはずはない ユーリ
 きみがだれも愛してないはずはない ユーリ
 みんなきみを愛してるのに!」


 私たちはけっして同じではない。どれほどに顔が似ていても、どれほどに状況が似ていても、やはり、同じではない。それでも関わり合うんだ。互いを理解し合うことはできないまま、相手に優しさを冷たさを喜びを美しさを苦しさを感じ取る。それはすべて嘘ではないし、それもまた、本当のものなのだろう。異なり、誤解し合うしかできないなかで、私たちはそれでも「他者」の像を見つけ、愛していく。それは、他者が自らの肉体に全てを閉じ込めて、沈黙していたとしても、その息苦しさを打ち破る力を持つのだろう。感情をまた溢れさせていくこと、自らを自らとして打ち明けていくこと、誰かを深く愛すること、そのすべてを肯定することができるはず。私たちはすべてを共有なんてできないが、だからこそ、きみがきみに与えた罰に、「違うよ」と言える。心の底から溢れてくる愛情を、届けていくことができる。きみはきみを知っているつもりでいる。きみのことはきみが全て、知っているつもりでいて、そうしてきみはきみを罰するのだ。それでも、ぼくはきみがとても優しいことを証明できる、きみを、愛していくことができる、きみの罪を、許すことができる。

 信じて。


 ラスト、エーリクの告白によって、ユーリはトーマの本当の愛情を知ることとなる。エーリクは決してトーマの代弁者ではない。けれど、エーリクもトーマも、ユーリを愛していた。エーリクの愛情をユーリが受けとめたとき、彼は同時にトーマが自分に向けていた愛情も、受けとめることがやっとできたのだ。愛という、ひとつの大きな海そのものを、強く信じるようにして。

最果タヒ連載 トーマの心臓
『トーマの心臓』 萩尾望都著

小学館文庫(1995)

「人物それぞれにある過去や未来、そのすべてがある一瞬、重なり合うのだということを、物語というある固定されたフレームの中で見せてしまえるのがこの作品の凄みだと思います。彼らのことをすべて知ることはできず、けれどだからこそ彼らを尊重することができる。オスカーのことも詳しく書きたかったけれどそれは、またどこかで。」

<文/最果タヒ イラスト/とんぼせんせい>




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