Entertainment
Lifestyle

菅田×有村『花束みたいな恋をした』がヒット中。いつか枯れる恋の美しさ

「男らしさ」にからめとられていく麦

 その原因のひとつは、イラストレーターになりたいという夢を捨て、「男らしさ規範」や「資本主義社会」といったものに無意識のうちに絡(から)めとられていく麦の姿として現れるだろう。  麦と絹は、駅から徒歩30分のアパートに同棲し、そこで自分たちだけの世界を構築していた。大学を卒業してもすぐには就職活動をせず、最低限の収入を手にしながら飼っている猫と好きなカルチャーに親しむ生活。麦にはイラストレーターを目指す夢もあり、おそらく極貧ではありながらも、彼らなりの楽しい生活はできていたはずだった。  しかし、物語はある場面を契機に一変し、とりわけ麦に現れた変化を捉える。
映画『花束みたいな恋をした』より

映画『花束みたいな恋をした』より

 具体的には、一度イラストレーターの夢を諦めて就職活動をすることになるのがそれなのだが、その背景には「一生添い遂げるためにはとにかくお金を稼ぎ、男が女を守らないといけない」といったような、前時代的な男性社会に同調する考えがうっすら読み取れるのだ。  そうして生活は変わっていき、彼らはその変化に適した関係性を再構築することができなくなっていく。

それでも「恋愛」はこの上なく輝かしい

 麦と絹は、「ほとんど同じ」人間だったけど、「まったく同じ」人間ではなかった。それがこの恋愛の真理だったのではないかと思う。  共鳴スイッチが押されていくことの表面的な興奮に気を取られていたら、いつしか足元をすくわれてしまった。繰り返しになるがそれを、「恋愛はいつしか終わるものだ」という悟りきったような抽象的な概念だけで描いていないところが、本作の素晴らしさであるだろう。  人と人はどこまでいっても真にわかりあうことはできないだろうけど、だからこそ、それが錯覚であったとしても一度わかりあえたかに思える瞬間はこの上なく輝かしい。それは坂元裕二が『それでも、生きてゆく』や『最高の離婚』、『カルテット』といった諸作で描いてきたテーマである。
映画『花束みたいな恋をした』より

映画『花束みたいな恋をした』より

 もしかしたらまた彼らは偶然出会い、話をするかもしれない。そのときに、麦と絹の心のなかにあの出会いの夜の記憶が残像としてあったならば、わかりあえないことを前提にした、わかりあおうとする日々がまた始まるかもしれない。  そんなことを想像せずにはいられない「恋のはじまりの美しさ」が、映画には克明に描写されているはずだ。 製作:『花束みたいな恋をした』製作委員会 配給:東京テアトル、リトルモア (C)2021『花束みたいな恋をした』製作委員会 <文/原航平>
原航平
ライター/編集者。1995年生まれ。『リアルサウンド』『クイック・ジャパン』などで、映画やドラマ、YouTubeの記事を執筆。カルチャー記録のブログ「縞馬は青い」を運営。Twitter:@shimauma_aoi
1
2
Cxense Recommend widget
あなたにおすすめ