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伊藤健太郎が“ダメ人間”役で再スタート。2年ぶりの主演映画でみせる俳優としての力とは

根掘り葉掘り聞いた上での伊藤の印象

「冬薔薇(ふゆそうび)」 阪本順治監督は、伊藤健太郎の生い立ち、家族との関係、仕事観、どういう友人と付き合ってきたのか、事故についてネットで言われてきたことの真偽や、怪我をさせた方と今どう繋がっているかなど、マネージャーも入れずに2人きりで、2時間ほど根掘り葉掘り聞いたという。  阪本監督はその時の伊藤に、「にぎやかで屈託のない若者」「独特の人懐っこさがある」と同時に、「表面は社交的に振る舞っていても、どこか寂しさも感じる」「実は本人も気付かないネジレを抱えている」という印象を持ったそうだ。その上で伊藤は「自分はもう、失うものはなにもない」という強い気持ちで、監督の思いに応えようとしたという。  その阪本監督の印象と、伊藤自身の気持ちは、実際の映画に大いに生かされたのではないか。劇中の彼は不良グループと打ち解けたり、専門学校にも友人がいたり、女性とすぐに性的な関係を持って援助をしてもらったりもするが、それぞれから“薄っぺらさ”が見抜かれてしまっているようだった。表向きには社交性があるものの、実際にはやっぱりダメ人間であり、その様は情けないと同時に、どこか“普通”になれない寂しい人間にも見えた。それを、伊藤は完璧なまでに体現していたのだから。

現実の過ちを明らかに連想させるエピソードも

『冬薔薇』を観て改めて思い知らされたことは「不祥事を起こした俳優の作品に、こういうアプローチがあったのか」ということだった。不祥事のために後から急ピッチでの配役の変更や再撮影、最悪の場合は作品自体がお蔵入りになることもある。変更なく公開されたとしても観る際のノイズに感じてしまうこともある。  だが、これまで書いたように本作は過ちを犯した伊藤の、そして現実の彼に複雑な感情を抱いた受け手の気持ちも反映したような内容でもあり、だからこその厚みを作品に与えていた。  しかも、劇中には、その伊藤の現実の過ちを明らかに連想させるエピソードもある。視覚障害を持つ方の白杖を倒してしまった時、彼が初めにどういう行動をして、その後にどのようなことを言われたのか。ここにこそ、伊藤が現実で起こしたことを簡単には忘れさせないという“容赦のなさ”があると同時に、彼が“これから”の人生を歩んでいく様を鼓舞するような作り手の優しさをも感じたのだ。  ぜひ、伊藤の復帰を、彼の思いや俳優としての力も鑑みながら、スクリーンで見届けてほしい。 【画像をすべて見る】⇒画像をタップすると次の画像が見られます <文/ヒナタカ>
ヒナタカ
WEB媒体「All About ニュース」「ねとらぼ」「CINEMAS+」、紙媒体『月刊総務』などで記事を執筆中の映画ライター。Xアカウント:@HinatakaJeF
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