73歳の作曲家がブレない理由。乳がん・心身症や介護を越えピアノ弾き語りを45年
長年、ひとつのことをやり通すには、強固な信念と覚悟が必要だ。
作曲家・吉岡しげ美さん(73歳)。映画や演劇に楽曲を提供し、後進に音楽を教え、そして自らの道として、詩人の作品に曲をつけてのピアノ弾き語りを45年。孤独にさいなまれ、病気に見舞われた時期もあった。音楽こそが自分にとって必要だったと彼女は言うが、もしかしたら逆に音楽が彼女を必要としてくれたのかもしれない。
「45年、ずっと弾き語りのコンサートを続けてこられたのは、そのときどきに私の心情にピッタリくる女性たちの詩や詩人との出会いがあったから。そういう意味では恵まれていたんですよ」
誰もが惹きつけられるとびきり明るい笑顔で、吉岡さんは自身の人生をそう振り返った。
東京生まれの吉岡さんは、子どものころからピアノを習っていた。何不自由なく育ったが、小学校6年生のときに父がガンになり、中学3年生のときに亡くなった。父の闘病生活の間、母は父につきっきりで、自身も父の病気を受け止めることができず、孤独感にさいなまれたという。寂しさを埋めるために父が闘病を始めたころから作曲を始めた。
「結局、高校も第一志望には失敗して。ちょうど多感な時期だったしね。母は専業主婦だったけど父が亡くなったとき35歳だったんですよ。今考えれば若いですよね。母もかわいそうだったなと思う。
今でも覚えているんです。そのころ国立競技場のすぐ脇に住んでいて、’64年の東京オリンピックの閉会式のとき、わーわー喧噪が聞こえてくる中、うちは父のお通夜だった。対照的なあの光景は忘れられません」
アパート経営をしていたので、経済的には困らなかったが、母は「手に職をもったほうがいい」と音楽への道を進めた。
「あわてて受験勉強を始めたのが高2から。なんとか武蔵野音大に滑り込んで。当時は大学闘争の時代で、私も社会のさまざまな問題に拳を振り上げていました。一方で、アングラ劇の音楽を担当したり、今もある東京室内歌劇に『手伝わせて』と入り込んだりして音楽活動も続けていました」
社会に出てから、大学闘争は男のものだったのかもしれないとふと感じた。それは音楽の仕事においても同じだった。
作曲の仕事がしたくて、子どものミュージカルを自主制作したところ、レコード会社のディレクターを紹介されたものの……。
「当時はどこもそうだったのかもしれないけど、音楽業界も極端な男社会だった。現場は大変でしたよ。作曲家として録音に参加すると、『こんな若い女の作曲家ってなんだよ』『譜面、間違ってるんじゃない?』『写譜ミスかよ』などと現場で言われる。演奏家、ディレクター、音響、男性しかいなくて、誰もかばってくれない。
名前があるのに『ねえちゃん』と呼ばれる。私は棒を振る(指揮する)立場なのに、いびられてばかり。悔しくてトイレで泣いたこともありました」
父が闘病を始めた10代前半から作曲をスタート
極端な男社会だった音楽業界
社会に出てから、大学闘争は男のものだったのかもしれないとふと感じた。それは音楽の仕事においても同じだった。
作曲の仕事がしたくて、子どものミュージカルを自主制作したところ、レコード会社のディレクターを紹介されたものの……。
「当時はどこもそうだったのかもしれないけど、音楽業界も極端な男社会だった。現場は大変でしたよ。作曲家として録音に参加すると、『こんな若い女の作曲家ってなんだよ』『譜面、間違ってるんじゃない?』『写譜ミスかよ』などと現場で言われる。演奏家、ディレクター、音響、男性しかいなくて、誰もかばってくれない。
名前があるのに『ねえちゃん』と呼ばれる。私は棒を振る(指揮する)立場なのに、いびられてばかり。悔しくてトイレで泣いたこともありました」



