しかも当時は、歌謡曲の世界でも漫画でも、描かれる女は「目がぱっちりして細身でかわいらしく、常に男を待っている女、男に操(みさお)を立てる女」がもてはやされていた。自分自身も、素直でかわいい女を期待されているのだろうと感じ、モヤモヤが募(つの)るばかりだった。それでも持ち前のねばり強さが頭をもたげていく。
逆に、女の本質、女の本音をなんとか音楽にできないか、吉岡さんは考え続けた。そんなとき、友人に紹介されたのが福島県で農村を見つめながら生きてきた作家・詩人の新開ゆり子さんと、岩手県北上市の小原麗子さんだった。
「26歳のときでした。福島に飛んで行って新開さんにお目にかかりました。私は東京の生まれ育ちで植物の名前もろくに知らない。新開さんに呆れられちゃって。でも新開さんと小原さん、ふたりの女性との出会い、それぞれの詩によって、人が生き抜くこと、農村の女性たちの血と汗と涙……そういうものが私の体に伝わってきた。それが私の原点かな」
その思いをこめて彼女たちの詩に曲をつけ、初めてコンサートを開催したのが28歳のときだった。ところが新開さんには、「あなたはやっぱり都会のお嬢ちゃんだ」と不評を浴びた。曲がきれいすぎて、詩の思いが伝わらないとバッサリ斬られたのだが、それでめげる吉岡さんではない。
「身の丈(たけ)に合わないことをしたとは思ったけれど、女の言葉を女である私が音楽で表現する、女の目線で表現していこうと決めました」
同時期に、日本女子大学児童学科に学士入学。
「女と子どもに興味があるんですよね。児童学科とはいってもいろいろな勉強ができました。女性は男がいないと、遠慮せずになんでも自分でやるでしょ。私は女であることに落とし前をつけたい、女であることを根本的に勉強しなおしたかったから“女子大”に行ってみたかったんです」
もう一度、自分の人生をたどるように学んでみたかったのかもしれない。
「自分で詩を書いて曲をつけたいとも思ったけど、書けないんですよ。それで書店の詩のコーナーを巡っていたら、出会ったのが新川和江さんや茨木のり子さんの詩。最初のコンサートから1年後、またコンサートをしました。詩人たちの応援もあって、お客さまもけっこう来てくれて」
それから毎年、このコンサートを続けてきたのだ。彼女の音楽活動の芯は、このコンサートなのかもしれない。どこの事務所にも属さず、マネージャーもつけず、たったひとりでセルフプロデュースを続けてきた。
「この活動は自分ひとりですべての責任を負わなければいけないと思ってやってきたんです。それは詩人への敬意から。詩人の許諾、亡くなっている方なら遺族の許諾を得て作曲しているわけですよ。
音楽事務所に入ったりマネージャーがついたりしたら、私の知らないところで何かが起きる可能性もあるじゃない? だから主催者は私、プロデュースも私。ただ、今回は45周年の記念だから、手に負えなくなって初めてプロデューサーを頼みましたが」
詩を書いた人たちへの重い責任を感じながら、たったひとりでコンサートを続けてきて45年。彼女の粘りと詩や音楽への熱い思いがこもったコンサートになるはずだ。